第八章 愚者の記録/向坂秀夫
            The fool

 寝る時間さえ惜しんで働き
 手に入れたのは無限の孤独
 何も考えずに遊び惚けても
 後に残ったのは空虚な疲労
 足跡ばかり見つめていても
 何が生まれる訳でもないし
 必死で希望を捜し出しても
 何を手に出来ると言うのか
 全てを脱ぎ捨てたとしても
 何処にも辿り着けなかった
 全てを拾い集めたとしても
 もう何処にも戻れないのに
 始まりもせず終りもしない
 唯生きる事だけに一生懸命
 その存在の記録を残す為に
 生きていようと思っただけ


 僕達がいつも待ち合わせに使う喫茶店、"KooLTreasure"は、紅茶が美味しい店で、いつもは女の主人が一人でやっている。たまに金髪の男の人が手伝いに入っていることもあって、そんなときは必ずモデルっぽい凄いクールな美人が店に現れる。訊いたことがないので三人の関係は僕にはよく解らない。なんとなく、金髪がママさんの息子で美人はその恋人らしい。

 僕がドアを開けてベルを鳴らすと、千洋が奥のほうの席で手招きした。今日は彼女と彼はいなかった。僕はカウンターでミルクティーとヴァニラアイスを頼んでから、千洋の斜め向かいの席に座った。

「彰、五時までは抜けれないって」
「実はさ……」
 僕が昨日の事件、つまり彰が今見学に行っているコインロッカーでのことを言おうとしたとき、ミルクティーとアイスがきた。
「何?」
「うん、」
 しまった。タイミングを逸してしまった。こうなるともう上手く話せない。
「えっと、あ、うん。」
「だからー」
「仁実ちゃん、大丈夫?」
 なんだこの質問。
「仁実? 良くない、けど?」
「ちょっとね、見掛けたから」
「いつ?」
「昨日」
「私達がサーカスに行く前?」
「後」
「ウソ。私、帰ったらもう仁実寝てたし、今日も外出できるような状態じゃなかったはずよ?」
 じゃあ、あれは、誰だ?
「でも、僕は、夜中に会ったんだよ?」
「夜中?」
「誤解されると困るんだけど」
「私は課題やりながら二時……過ぎくらいまでは看てたけど、その後……も、考えられないし」
「おかしいな……。二時には僕は、仁実ちゃんと一緒にいたし、他にも何人か一緒にいたよ」
「本当に仁実?」
「だって、僕も、修一さんも、……知ってるよね? 仁実ちゃんの医者の。知り合いなんだ」
「知ってる」
「……も、見てるんだし、少なくとも僕達は仁実ちゃんだと思ってそう呼んでたけど」
「待って、最初から、順を追って説明してよ。第一、どうしてそんな時間に仁実と望君があったりするわけ?」
 僕は昨日からの一連の出来事を千洋に話した。
 悪魔憑きのシヴィルに会ったこと。
 仁実が訪ねてきたこと。
 ロッカーを開けたこと。
 仁実が発見したチケットのこと。
 ロッカーが爆発して、仁実が修一さんを呼んだこと。
 紫のマンションに行ったこと。
 修一さんが仁実を送っていったのが二時だったこと。
 それから紫の部屋に泊まって、起きてから病院に行ったこと。
 全部手放してしまうと、なんだか少し楽になったような気がした。
「……それだと、少なくとも一時までには仁実はサーカスに行ってた計算よね。じゃあ、どうやって仁実はあの坂道を下ったの? まともに歩いたら一時間はかかるでしょ?」
「うん……」
「それに、その時間帯、私、確実に仁実の隣にいた。非道くうなされてたの、ちゃんと覚えてるし」
「でも、あれは確実に仁実ちゃんだった」
「そうだよね……望君がこんなことでウソついたって仕方ないし……わかった。とりあえず仁実に訊いてみる。それでいい?」
「うん」
「それと……」
 その時、入り口のドアについている鐘が鳴った。
 僕が振り向くよりも早く、千洋が彰の名前を呼んだ。
「二人で密会か? 妬けるな。嫉妬して思わず二人とも殴り殺してしまいそうだ」
 彰のシニカルな声が聞こえた。
「あら怖い。お願いだからお店の中ではあんまり物騒なことは言わないで。それで、ご注文は何?」
 ママさんが上手くとりなして彰を席に座らせた。彰はカフェオレを注文した。
「それで、話ってなんだ?」
 席につくと、彰が訊いた。
「彰、駅の爆破事件はどうだった?」
 千洋が訊いた。
「どうもこうも、あんなつまんねえの俺は嫌いだね」
「つまらないって、どんな風に?」
「あれ、ただのハッタリだぜ。派手に爆風は起こるけど殺傷能力はほとんどゼロ。爆弾なんて呼べるような代物じゃない。俺ならもっと効くヤツを仕掛けるね」
「物騒な話はよしてって言ったでしょ?」
 カフェオレを運んできたママさんが言った。そして不思議な微笑を残してカウンターに戻り、常連客らしいスーツ姿の男と世間話を始めた。
「殺傷能力ゼロ?」
 僕は訊いた。
「ああ。あるんだ、そういうのが。被害者もまだ名乗りでてないだろ?」
「それがね、」
 千洋が言った。
「僕なんだ。その被害者」
 僕が続けた。
「冗談だろ?」
「だったらいいんだけど」
 千洋が言った。同感。
「マジかよ……それで、状況は?」
 彰がなぜか聞き込み態勢に入って、千洋がさっき僕が言ったことを上手くまとめて伝えた。
「ふゥん。それで、ロッカーの中には何が入ってたんだ? 空だった、ってわけじゃないんだろ?」
「ああ、これ」
 僕はバッグからチケットを取り出して彰と千洋に見せた。
「この漢字、読める?」
 『萍』
「確か、『うきくさ』よね」
「違うな。『デラシネ』だ」
 彰はカフェオレを少しすすった。
「それより、千洋? お前の妹、さっき駅前で見掛けたぜ。サーカスの方に向かってたみたいだったけど」
 彰が急激に話を変えた。
「彰も見たの? さっき? 仁実は家で寝てるはずよ?」
 千洋の顔が険しくなった、……ような気がした。
「間違いなくあれはお前の妹だったと思うけど?」
「うん……わかった。ちょっと待って」
 何か思い詰めたような顔をして千洋は席を立ち、電話機のある入り口近くまで行って、手招きした。
「望君、かわって」
 千洋が受話器を差し出した。
「もしもし」
「望さん? 仁実、です」
 掠れていて判りにくかったけど、確かに昨日と同じ声だった。
「昨日の夜、会ったよね?」
「はい、多分」
「多分?」
 彰が僕の肩を叩いて、かわれ、の合図をした。
「もしもし?」
「だって、さっきいただろ?」
「多分、ってそんな」
「おい!」
 彰が受話器に向かって怒鳴った。
「彰! 仁実は病人なんだから」
 千洋が彰に言った。彰は千洋に受話器を返して、千洋が二・三言何か話してから受話器を置いた。

「これでだいたい解った」
 振り向いた千洋が言った。
「どういうことだよ」
 彰が訊いた。
「『仁実』は二人いるの」
「二人いる?」
「双子?」
「……違うの。『仁実』が二人いるの」
 千洋は真顔でおかしなことを言った。
「だから、」
「少なくとも、私と望君は別々の場所で同時に『仁実』を見てる。彰はさっき『仁実』を見て、『仁実』は今家にいた。でしょ?」
「だから?」
「だから、仁実が二人いるの」
「千洋? お前、アタマ大丈夫か? 自分で言ってることわかってるか? かなりキてるぜ?」
「私は正常よ? それに、こういうことは初めてじゃないの」
「どういうこと?」
「以前も、同じようなことがあったの。私が親戚の家に遊びに行ってて、その家には仁実もいたのね。それで、私は用事があったから仁実を残して親戚の家の人の車で先に帰ったの。その家から私達の住んでいるマンションまでは距離はそんなにないし、一本道で、そのとき私達を追い越していった車はなかった。それから、その一本道は最短距離だから、近道なんてないの。でも、マンションの近くの公園には、――仁実がいたの」
「よく似た別人だったんじゃない?」
「まさか。だって、私、仁実と話したのよ? 親戚の家にいた仁実とも、公園にいた仁実とも。公園にいた仁実はちゃんとその日集まってたメンバーも知ってた。予定外だったはずの突然の訪問客も含めてね。だから、それは仁実なの。両方とも」
「待て。ワケわかんねえ」
「それでね、私なりにいろいろ考えて、わかったの、この奇妙な齟齬の正体が。仁実は二人いたの」
「だから、何が言いたいんだ?」
「本物の仁実は、ずっと公園にいたのよ。そして、私が親戚の家で仁実だと思っていたのは、別人だった」
「お前、自分の妹を間違えるか? 普通」
「本当の妹だったら、間違えなかったのかもしれない」
 千洋が辛そうに呟いた。
「?」
「私と、仁実は、血が繋がってないの」
「連れ子……か」
 彰が言った。
「そう。仁実は、今のお父さんの子供なの。私達は、子連れ同士の再婚なの」
 初耳だった。
 僕はずっと、千洋は普通の、若干裕福な家庭で育ったんだと思っていた。僕と美生は両方とも母子家庭で、二人とも父親が早死にしている。だから、気が合うのかもしれない。彰は両親ともに交通事故で亡くなっていて、今はOLの姉と一緒に暮らしている。
「それでね、」
 千洋が続けた。
「秀夫とは仁実のほうの従兄なの。仁実のお父さんが秀夫のお母さんの弟なのね。だからホントは私は全然関係ないの。でも、秀夫はどういうわけか私のこと気に入ってるし、仁実と礼子――秀夫の妹――が凄く仲がいいから、結構親戚付き合いは多かったの。それでもう一人の仁実の正体はね、礼子だったの。実際、礼子と仁実は怖いくらい似てたし、星座も血液型も学年も服の趣味も性格も細かい癖も一緒だったの。例えば、時計を右腕につける、とかね」
 そう言って千洋は僕のほうを見た。そして僕は、サーカスに行く前に千洋が僕の腕時計のことを言ったのを思い出した。
「でも、それだけで間違えたりはしないと思うんだけど」
 僕は言った。なんとなく、千洋の視線が痛かった。
「うん。普通は、ね。でも、仁実と礼子の関係は、どう考えても普通じゃなかったの。別に、変な意味じゃなくて、純粋に、なんて言うか、二人の意識が繋がっているって言うか二人で一つの意識を共有してるって言うか、テレパシー? こういう言い方って本当は好きじゃないんだけど」
「……つまり、シンクロしてたんだろ?」
 彰が言った。SF系が好きな彰らしい発言だった。
「ちょっと違うの……。仁実と礼子は、二人で三重人格だった、みたい。仁実、礼子、もう一人。秀夫はかなりそういうのに順応してるんだけど、私だけがどうしてもついてけなくて。やっぱり、血、なのかなあ、とかね。考えちゃうの、どうしても。でも、やっぱり異常よね? 肉親なら誰でもシンクロしちゃうワケじゃないでしょ? それに、兄弟姉妹とかならともかく、二人はただの従姉妹なのよ? そんなの絶対おかしいと思うの。それとも……」
 千洋の表情が崩れた。なんだか、泣きそうな雰囲気だった。
「大丈夫だ、千洋。俺も、姉貴の考えてることなんか全然わかんねえよ」
 彰がそっと千洋の肩に手を回して、いつになく優しく囁いた。
「それにな、俺も、お前のケースによく似たのを知ってる」
 そう言って彰はなぜか僕を見た。
「双葉、だよ」
「誰?」
「彰の……前の、彼女」
「へえ……」
 千洋が少しだけ不機嫌そうな顔になったのに、彰も気付いたらしかった。
「でも、双葉はもう、」
 死んだ。
「ああ、目下行方不明中だ。正直な話、まだ少し引き摺ってる。千洋、お前がアイドル系だとすれば双葉はモデル系だ。全然違う」
「どういう意味?」
 千洋の声が少しダークな感じに変わっていた。
「双葉は俺を見ようとしなかった。でも、千洋、お前は俺を見ている。そういう事だ。……俺達が付き合ってたのはほんの数ヵ月だけだし、実際、付き合ってたとか言えるのかどうかもよく解らないような関係だった。双葉は俺に何も言わないし、いくら俺が話しかけても上の空だった。ただ俺が物理的に双葉の傍にいただけで、双葉が俺のことをどう思っていたのかさえ、解らない。それでも周りが騒ぐから、違うな、周りが盛り上がっていたおかげで、俺達は、俺と双葉は付き合ってることになっていただけだ」
「彰は? 彰は、どう思ってたの?」
「俺? 俺は、双葉を、」
 彰はそこで言葉につまった。
 きっと、辛いんだろう。
 僕はやり切れなくなって彰から視線を逸らした。
 TVが、JUSTICE HEAVEN復活のニュースをやっていた。
 嫌な予感がした。

「望君?」
「何?」
 千洋が僕を呼んだので、TVから目を戻した。
「どうして、望なんだ」
 彰が言った。
 しまった。
 話が見えない。
「どうして何の関心もない望とはシンクロして、あんなに傍にいた俺とは話も通じなかったんだ」
「何の話だよ、一体」
「双葉はな、望のことなら何でも知ってたぜ? その日の朝食のメニューから授業中に居眠りして見た夢の話までな」
「何だそれ?」
「あの頃、俺がお前にいろいろと訊いてたの覚えてるか? あの時は言わなかったけど、あれは、全部双葉が言ったことなんだよ。それを俺は確かめてたんだ。それにな、お前が不機嫌だと双葉は悲しそうな目をしてた。お前が休んだときは、双葉の様子で本当に病気なのかサボりなのかは一発で解った」
「でも、嘘だ、僕は、」
「解ってる。多分、たまたま周波数が合ってただけなんだろう。それも一方通行で。望は双葉のことは全然見てなかった。そんなのは解る。それぐらい俺は双葉の近くにいたんだそうだ、一番近くにいたんだ」
「彰」
「まあ、こういうこともある、って話だ。な、千洋。今は俺はちゃんと千洋のことを好きだから、妙なことは考えるな。もういない人間のことをどうこう言ったって仕方ないだろ? 今、俺達はここで生きてるんだから」
「うん」

 シンクロ、と言えば、僕にも思い当たるフシがあった。
 紫の夢だ。
 夢の中の僕は、多分僕じゃない。
 あの夢は、紫か僕じゃない『僕』のどちらかの記憶じゃないか、とか思う。
 確信はないけど。

 彰がおかわりを注文したついでに、僕と千洋も追加オーダーした。

「実はね、」
 湯気の立つパンケーキを切り分けながら千洋が言った。
「仁実のことをね、タケル君に相談したことがあるの。タケル君、それっぽい本読んでたから、仮説として、ね。バレちゃったんだけど、結構いろいろと親身になってくれてね、仁実とも何回か会ってたみたい。そのときは結局超能力がどうの、って話になっちゃったんだったと思うけど」
「タケル、ねえ」
 彰が言った。
「それで?」
 僕がうながした。
「もう一度、会ってみようかな、とか思ってどう思う?」
「いいんじゃない? 僕もちゃんと会ってみたかったし」
「タケルね。」
 彰が言った。
「望に似てるよ。上手く言えないけど、外見とかよりも、もっと、こう、」
「そうかなー? 私は違うと思う。だって、望君は堅くてクセのある髪の毛だし、タケル君は柔らかいストレートでしょ? それに望君の何にも言わなくてもわかっちゃう、とかそういうカンの良さ? みたいなのは全然タケル君にはないし、タケル君は指先器用だけど、望君どっちかって言うとぶきっちょだし。ゴメンね。望君を悪く言うつもりはないんだけど、他の人と比べたりされたら気分悪いよね?」
「いいよ、ホントのことだし」
「……そういうんじゃないんだよ。望とタケルの共通項はさ、もっと深いんだよ。そう、核? とかそういうの。多分俺達なんかが考えてるより、もっともっと業は深いね。それに千洋はそう言うけど、髪形変えれば二人は多分そっくりだぜ? 体型だって同じようなもんだろ?」
 彰が言った。
 言われてみれば思い当たるフシはあった。仁実や、紫だ。
 仁実は僕のことを『タケル君』と呼んだし、紫は同じ布団にいたときにタケルの名前を口にしていた。僕自身、なんだかタケルのことを知っているような気がする。


 私、あなたのことを知っているわ。

 紫の言葉が頭をよぎった。

 これは、夢の中での言葉だったのか、現実に僕が聞いた言葉だったのか、それともその両方だったのか、僕はもうよくわからなくなっている。
 そう言えば、紫の名前をちゃんと聞いたのも、タケルが最初だったかもしれない。
 どうもあの辺の記憶があやふやなのでよく解らないけど、だとしたら、あの夢は、タケルの夢か記憶かもしれない。
 やっぱり、もう一度サーカスに行くしかないみたいだ。

「そう言えばJUSTICE HEAVENが復活したんだってね」
 喫茶店を出るなり千洋が言った。
「ああ、そんな話だな。……多分、あのスタングレネードを仕掛けたのもJUSTICE HEAVENだ」
「スタングレネード?」
「ああ、テロリスト鎮圧用のアイテムで、閃光手榴弾とも言う。例の駅のコインロッカー爆破のヤツだ。視覚、聴覚、方向感覚を奪いテロリストを一時的に行動不能にする。これ自体に殺傷能力はないが、普通は相手が麻痺した瞬間にガスマスクをつけた特種部隊員が突入して射殺する。現在、世界中の特殊部隊で使用されている。説明はこれくらいでいいか?」
「うん、それはいいんだけどね、どうして、JUSTICE HEAVENがそんな物を使うの? JUSTICE HEAVENの武器はナイフでしょ?」
「まあ、対人用地雷じゃなかっただけ……なあ、あれ、美生じゃねえ?」
 彰が、千洋の問いには答えずに五メートルぐらい前を歩いている髪の長い女の子を指差した。
 その瞬間、強い突風が吹き抜けて、僕は見た。
 首筋の銀色のコイン。
「間違いない、美生だ」
「美生ちゃん!」
 美生は少し振り向いてから、逃げるように走りだした。オレンジのサングラスのせいで顔は良く見えなかったけど、絶対に美生だった。
 美生は少しずつ走るスピードを上げていって、何秒か後にはほとんど全力疾走に近いスピードにまで到達していた。僕と千洋は運動が苦手で足も遅いし体力もないので、あっというまに置いていかれてしまった。彰は瞬発力は美生と張るけど、圧倒的にスタミナがなくて三分しかもたない。予想通り、彰は横断歩道の所でしゃがみ込んでいた。
 信号は赤。
 大きなトラックが何台も通り過ぎていて、向こう側は見えない。
 完全に、見失った。
 僕達は結局三人とも美生を捕まえることができなかった。

 美生の運動神経は、普段のおとなしさからは想像もできないほど発達している。百mを十二秒台で走る女子はそうはいない。男子でだってかなり速いほうでなければ美生に追い付けない。美生は本気でインターハイ入賞だって狙える器なのに、なぜか部活に所属しようとはしない。それも、どんな種目だってある程度までこなせてしまうのに、だ。
 なんだかやけに大量の土砂を乗せたトラックが通り過ぎて、信号が青に変わった。
「千洋!」
 僕達が向こう側に渡ろうとしたとき、信号待ちで止まった妙に古い型の車から、モスグリーンのサングラスを掛けた男が顔を出して千洋を呼んだ。
「千洋だろ?」
「秀夫じゃない」
「何やってんだよ、こんなトコで」
「ちょっとね」
「どっか行くの? 乗ってけよ」
「悪いんだけど、反対方向だし、急ぐの。じゃあね」
「待てよ。つれないな」
「あ、信号変っちゃう」
「Uターンしてやるから乗れよ」
 そして信号は変わってしまった。

「彰君に望君だろ? 話は聞いてるよ。千洋の従兄の向坂秀夫。よろしく」
 結局僕達は秀夫の車に乗り込むことになった。千洋が助手席に座り、僕と彰が後部座席に乗り込んだ。小さいクラシックカーなので高校生の男二人が乗ると結構狭い。
「自己紹介なんかいいから、急いでよ」
「わかってるよ」
 そう言うと秀夫は横道を見つけて上手に車をターンして反対側の車線に潜り込んだ。
 僕は歩道のほうをひたすらチェックしていたけど、結局美生は見付けられないまま秀夫の車は坂道を上り切ってしまった。

「ダメか……」
 千洋が小さく溜め息をついた。
「どうする? もっかい戻ってみる?」
「無理だ、反対車線からなんか見つかりっこねえし、どうせもうどっかに消えちまってるよ」
 彰が悲観的に呟いた。
「じゃあ、ドライブでもするか?」
「そんな気分じゃない」
 千洋が反対した。
「なあ千洋、そろそろ戻らないと間に合わない」
「……」
「忘れてたなんて言わせないからな」
「わかってる」
「仁実は駄目なんだから、せめてお前が来てくれないとさ」
「わかったから、やめて」
「三回忌なんだぜ?」
「ごめんね、彰、望君。そういうわけだから今日はもうダメなの。早く帰って支度しないと」
「三回忌って、誰の?」僕は訊いた。
「……礼子なの」
 礼子?
「待て、千洋。じゃあ、俺達が見たのは、一体、誰だ?」
 彰が訊いた。
 動揺している。
 僕もだ。
 わけがわからなくなってきた。
 仁実は家で寝ていて、礼子は三年も前に死んでた?
「わからない。仁実が生霊でも飛ばしてたのかもしれないね」
 そう言って千洋は弱々しく微笑んだ。その言葉がちょっと投げやりだったのが妙にリアルだった。心霊否定論者の千洋らしくない発言だった。
 かなり、弱ってる。
「何の話だ?」
 秀夫が訊いた。
「ん、ちょっとね。後で詳しいこと話すから。今はあんまり触れたくない」
「……わかった。じゃあ、彰君、望君。家まで送るから、場所教えて」
 僕と彰がぼそぼそと家の場所を呟いた。
「市の北端と南端か、じゃあまず、千洋降ろして彰君から送っていこう」

 千洋と彰を降ろして、僕は秀夫と長い長い坂道を下っていった。
「君の住んでる街にさ、片山さん、って家があるだろ?」
「あの辺には片山は僕の家一軒しかないですよ」
「マジ? 片山、園美さんの家、だぜ?」
「僕のお母さんの名前も片山園美です」
「……そうか、それじゃ君が」
「僕が?」
「……やっぱやめておく。本人には刺激が強すぎるしね」
「何の話ですか、一体?」
「いいのか? 言っちゃっても」
「話の内容にもよりますね」
「じゃあ、いいか。話しちゃうからね。君と俺は兄弟かもしれない」
「何だ、そういうオチか」
「ねえ望君、君さ、ショックだったりしない? あ、もしかして冗談だとか思ってる?」「かなり」
「君の父親の名前は?」
「……」
 覚えてなかった。
 知らない、のかもしれない。
「じゃあ、十五年前にあのニュータウンの土地付きの一戸建を買ったときのお金はどこから出ていた? 一介の主婦がそう易々と買えるような代物じゃないだろう?」
「……」
「君の学費は? 生活費は? 一体どこから出てる? 主婦がパートだけでどうこうできるレベルの金額じゃないだろう?」
「……」
「俺の親父は市長をやってる。それにもともと資産家の家系だ。親父はこの市でも加納貿易と並ぶ大企業、向坂不動産の黒幕だ。市長の役目との都合で表には出ないが今でも事実上あれを仕切ってるのはあの人だ。もっとも十五年前までは爺さんが生きてたから親父は好きなことをやってたみたいだけどな。理系だったんだ。ああ、この話は今は関係ないな元に戻そう。俺が何を言いたいか、って言うと、親父は君の母親に家を買ってやり毎月一定の額を贈っている、ってことだ。これは事実だから、しょうがない。記録が残るんだ、ちょっとでもお金を動かすと」
「証拠」
「証拠ならあるよ。それこそ嫌になるほどね君の家にだってあるさ。銀行の通帳を見てみれば、毎月結構な額が振り込まれてるはずだそれも、ご丁寧にパートの給料日に合わせてね」
「でも、母さんと市長とじゃ、全然繋がりがない」
「あるんだ、それも。君の母親、片山園美さんは、以前、製薬系の研究者だった。彼女は薬科大学も出てるし、大学院にも進んでいる。就職先もその筋だった。それで、ウチの親父は同じ理系でも専門は細胞なんだ。まず、畑が違うから、このラインは一見ありえなそうに見えるね? でも違うんだよ。某博士がある研究を進めていて、見込みのありそうな研究者を集めていた。その中には親父や園美さんもいた、ってわけだ」
「でも、」
「デモもストライキもない。学生運動じゃないんだから。これは事実だよ、望君って言うか弟。世の中には曲げられないものが二つあるんだ。事実と……何かもう一つだ」
「……」
「不満らしい。じゃあこうしよう。世の中には曲げられないものが二つある。それは、事実とレーザー光線だ」
「真空状態なら曲がる、んじゃなかったかと思うんですけど。アルゴンの中とかだったかもしれない」
「まだ不満らしい。じゃあいいよ。地平線でも水平線でも頑固者の性格でも」
「もういいです」
「いや、よくないよ。だって君はまだ納得してないだろう? 決定的なことがあるんだ。俺は君の家にいる親父を見てる」
「へ?」
「十二年前だから、君はまだ五歳くらいだね。……礼子が四歳だったんだから、多分そうだろう。俺は礼子を連れて出来立てのアーケードに買い物に出掛けてた。慣れない土地だからね、帰りに迷子になったんだ。俺だってまだ小学生とかだったし、まあ、しょうがないよね。そしたら、親父が歩いてた」
「市長だって人間なんだから歩きもするでしょう」
「だから、あんな町中で、しかもニュータウンの真ん中で、向坂不動産の中枢にいるような人間が、タクシーでもベンツでもなく、普通歩くか?」
「別に、」
「残念だけどおかしいんだよ。だって俺は覚えてるからね。親父にはその頃怪文書が届いてたりして、家の中にも知らない人間がうじゃうじゃいたんだからね。今考えるとセキュリティサービスとかそういうのだったと思う、っていうか調べたら記録が残ってたから間違いなくセキュリティの人間だった。言っただろ? お金が動くと記録が残るんだ」
「でも、」
「デモもエンディングもないんだよ、ゲームじゃないんだから。……話を戻すよ? 親父がニュータウンを歩いてた。俺は不審に思った。俺は礼子の手を引いて親父を尾行した。親父はある家の中に入っていった。表札は片山だった」
「本当に?」
「本当に。隣は桐生産婦人科。間違いないだろう?」
「……」
「その日のことは良く覚えてるよ。記憶は記録と違って変化するけどね、その日のことは正確に覚えているんだ。
 俺は礼子を連れてなるべく人目に付かないところに移動して、中で何が起こっているのかを知ろうとした。女の人が、つまりは園美さんなんだけど、何かをしきりに親父に言っていた。内容までは聞き取れなかったから、何を言っていたのかは判らない。時々男の子がぐずったような声で母親を呼んでいた。つまりは君だ。しばらくはそんな状態が続いたそのうち君の声が聞こえなくなった。親父はあまり喋らなかった。そのうち何の音も聞こえなくなった。親父が家を出た気配はなかったし、試しに怖々玄関まで近付いてみてみたけど親父の靴はまだあった。寝たのかもしれない、と今では思うけどね。でも、さ」
「シャツ」
「は?」
「その日の、市長のシャツの色は?」
「なんだい、急に」
「覚えてるんでしょう?」
「ああ、親父はジャケットを脱いで手に持ってたからな。青、だ。薄い、ブルー」
「やっぱり」
「何が?」
「母さんは市長と寝ていない」
「そう思いたいのは解るけど、」
「市長に変わった性癖があるなら別なんですけど、普通、これから女の人を抱こうと思ってる男は髪を直したりしないでしょう」
「……君も、覚えてるのか?」
「ちょっと、印象深いことがあったんで。って言うか、最近思い出した」
「なぜ?」
「解らない」
「まあいい。じゃあ、あの二人は君の家で何をしてたんだ? 何の話をしていた? 覚えてるんだろう?」
「……解らない。僕は、多分、泣いていたから」
「なぜ?」
「解らない、……覚えて、ない」
「なぜ?」
「記憶がそこから始まるから」
「じゃあ、その後君は? 泣きやんで、」
「解らない、……解ら、ない」
「君は礼子とどこに行ったんだ!」
「礼子? ……解らない」
「親父のスパイに夢中になっているうちに、礼子はどこかに消えてしまった。夕暮れが闇に変わろうとしていたから、俺はそろそろ打ち切りにしようと思ったんだ。そしたら礼子がいなかった。どこを捜しても礼子はいなかった。夜がどんどん濃くなって、そこら中から夕食の匂いがした。礼子がいなかった。
 ……しばらくしてとんでもないところで発見された。あの坂道をふらふら歩いていたのを警官に保護されたんだ。これも記録が残っている。派出所の奥ではどこかで聞いたような泣き声が聞こえた気がした。記録ではもう一人男の子の迷子がいた。名前は不明、ただ迷子になったら言うように言われていたらしい言葉を繰り返していただけだった、と記録が残っている。まさかと思ったから調べなかったけど、多分そこには園美さんの名前と君の家の住所と電話番号が載っているはずだ。……、考えてもみなかったな」
「僕は、」
 僕があの辺のことを言おうとしたときに、車が僕の家の前で止まった。
「ああ、時間がない。早く行かないと。親父の時間に合せてるとは言っても、寺には結構無理言ってこんな時間に法事をしてもらうんだ。俺は遅刻できない。また今度、ちゃんと話をしよう。証拠、揃えておいてもいい。
 じゃあな、望君って言うか弟」
 だからそれは違うと思う。
 僕は何かを言おうとしたのに、秀夫はとっくにフルスピードで消えた後だった。

 礼子が、あの時の?
 ナジャじゃ、ない?