第六章 審判の雨/神崎仁実
          JUDGEMENT

 光の中に投げ出されて
 その子供達は泣き叫ぶ
 喧騒と退廃で汚されて
 さらに声を張り上げる
 濡れた身体を奮わせて
 何かを求めて泣き叫ぶ

 天国でも地獄でもない
 この場所で生まれ出た
 涙は悲しい奇跡の所為
 冷たい雨に凍えていた
 濡れた身体で求める愛
 小さな掌で握り締めた
 脆く崩れ落ちていく灰

 それを大切と思うなら
 もう二度と放さないで




 逃 だしたナジ を追い けて僕 霧雨 煙る真夜中 街 飛び出 た。
 ナジ 。
  ジャ。

 どの い走っ んだ う。
 息 切れ い 。
 ――僕 駅 コインロッカー 前 ナ ャ 捕 。
 埃で乱れたスクリーンの向こう側には、

 痛 」ナ ャ 小さく喘いだ 、僕 ジャ 右腕 かんだ自分 右手 力 緩た。
「ゴメ 僕 言 た。
 そこには安らぎと記憶だけがあって、

「仁実ちゃん」
「望さん」
「……どうして、」
 それ以上、続かなかった。

 頭の中の空白に飛び込むように雨の音が聞こえ始めた。
 雨が、冷たい。
 濡れた髪は額に張り付いて、水を吸った服が重い。

 傍には、常夜燈に照らされて青白く光るコインロッカーの群。
 目の前には千洋に似ているショートカットの女の子。
 頭上には遠くのイルミネーションできらびやかに染まった雨雲。
 ここは、
 ――駅?

 真夜中の、終電も終わって静かな駅の、コインロッカーコーナーの入り口。
 どうして、
 仁実なんだろう。
 キラリ、
 仁実の右腕で何かが常夜燈の明りを反射した。
 あれは、
 違う、あれは腕時計だ。
 仁実の目も、僕の右腕で止まっているような気がした。

「時計、」
 仁実が沈黙を破った。
「右に、つけてるんですね」
「うん」
「左利き、なんですか」
「違うよ」
「私、も」
「うん」
「タケル君、も、時計、右手につけてたんです。左利き、じゃないのに」
「……」
「私達、変わってるのかな」
「そんなことないよ」
「……」
「タケル、に、何の用だったの?」
「どうして、望さん、あそこに、いたんですか?」
「……」
「……」
「サーカスに、戻ろうか」
「や、だ」
「……」
 僕が仁実に近付こうとすると、仁実は同じだけ僕から逃げた。
「寒い……」
 仁実が震えた。
 霧雨が相変わらず僕達を濡らしていた。
 髪が額に張り付いて気持ち悪い。
 服が水を吸って重い。
 寒い。

「……、せめて、雨宿りしよう」
「うん」

 ロッカーコーナーはトイレと屋根続きで、ヤニ臭くてその他の多種多様な汚臭もしていて、それでも雨に濡れ続けるよりはそっちを我慢した方がまだいくらかマシだった。

「あの、右手に、握ってるの、何ですか」
「え?」
 仁実に言われるまで、自分が右手を握り締めていたことにさえ気が付かなかった。
 なんでこんなものを持ってるんだろう。
「あ、鍵、ですね」
 鍵だった。
「ここの、ですか?」
「解らない」
「どうして」
「……解ら、ない」
「でも、ナンバープレート、付いてます」
「うん」
「見せて、下さい」
 ナンバープレートの付いたその鍵を、僕が何かを言おうとしたとき、仁実はもうすでにロッカーに差し込んでいた。
 かちり、
 音がして錠が外れる。
 仁実は少しのためらいも見せずに扉を開けた。
 中には、
 紙切れと鍵が入っていた。
「危ないよ」
「どうして」
「怪しいコインロッカーに入ってるのは銃か赤ん坊、だろ?」
「でも、これ、ライヴの前売りですよ」
「え?」
 仁実はしばらく襟をいじる仕種をしてから小首を傾げて紙切れを見た。
 その仕種が誰かに似ていたので、避けるように僕は紙切れを覗いた。

 萍
 Lilith LIVE
 NEVER fOREVER FOREVER NEVER

「この漢字、何て、読むんですか?」
「……読めない」
「そう、ですか」
「うん」
「……」
 雨が少し強くなった。


「寒くない?」
 もう数えるのも嫌になるくらいのロッカーを開けた後、僕は訊いた。
「大丈夫……」
 震える声で仁実が答えた。
 実際、鍵を開けるとまた次の鍵が、と言う状況がかなり長いこと続いて、もう全部のロッカーを開けたんじゃないかと思った頃だった。
 濡れた服が僕の体温を奪っていくのに、ムキになってロッカーを開けていた僕は気が付かなかった。
 仁実はレインコートを着ていたけど、どうも防水がいまいちらしくて、なんだか寒そうだった。
 そう言えば。
 仁実はあんなに離れた家からこんな夜中にどうやってここまで来たんだろう。バスはとっくに終わっているし、タクシーに乗ってきたって言うのも考えにくい。仁実の外見は下手をしなくても中学生くらいにしか見えないし。
 歩いて?
 まさか。

 次のロッカーの鍵にはナンバープレートが付いていなかった。
 ……、半分はついてるけど。
 読めない。
 これは、
 でも、
 穴?
 多分、これは、銃で撃ち抜いて、
 まさか。
 軽い頭痛がして、
 僕は少しだけ眠くなった。

 ロッカーには、鍵の他にもう一つだけ発見があった。
 青いインクの、多分スプレーかなにかで書いた文字がロッカーの中を天井? から床? から壁? までぎっしり書いてあった。


 ...HEAVEN MURDERER THAN JUSTICE HEAVEN MURDERER THAN JUSTICE HEAVEN...

 どこから始まってどこで切れるのかも全然解らないし、MURDERERは名詞だしMURDERは動詞だから比較級にはならないし、って言うか形容詞ならMORE MURDEROになるし、HEAVENがJUSTICE よりMURDERERなのか、それとも、何かがJUSTICE HEAVENよりもMURDERERなのかもしかしたら、JUSTICE HEAVENが何かよりもMURDERERなのかもしれないし、JUSTICE HEAVENがJUSTICE HEAVENよりMURDERERなのかもしれなくて、訳が解らない。
 ムリに訳すなら、『天国より殺人な正義』か、『もっと殺人な天罰』、『天罰よりも殺人』、とりあえず「JUTICE HEAVEN」は天罰だって言うのは思い出せて、「MURDER」をわざわざ形容詞で使わなかったって言う事はそれなりに意味があるのかもしれないし、そんなのは本当は全然関係ないのかもしれない。
 とにかくそれが何を意味してるか僕には全然解らなかった。
 わざわざこの異常なシチュエイションを作った犯人が、偶然落書きのあるロッカーにぶつかっただけなのかもしれない。
 そんなことを仁実に言った。

「『JUTICE HEAVEN』、って、本当に、天罰、なんですか」
「うん」
「……どうして、そんなことを、知ってるんですか」
「……」
 そう言えば、何でだろう。
 授業で出た単語でもないし、何かで読んだわけでもなさそうだった。
 ?
 天罰?
 ……。
 思い出した。
「三年前、流行ってたんだ。こういう名前の落書き」
「名前?」
「名前?」
「名前、って、言いました、今」
「多分、言い間違え、だよ。仁実ちゃんは、覚えてない?」
 さっきから思ってはいたけど、仁実は僕が名前を呼ぶたびにほんの少しだけ不快そうな顔をする。
「私、その頃、家に、いた、から」
 そう言えば千洋が言っていた。
 仁実は不登校だった。
 それもちょうど三年前。
「……その頃に、何件か事件みたいのがあって、不正をした議員とかヤクザとかがリンチにあって道端に捨てられたんだ。殺されてはいなかったんだけど、肩の辺り……うなじ、かな? に、ナイフみたいな凶器で二本線が引いてあったらしい。それで、捨てる時必ず壁にスプレーで天罰、って大きく書いて、その上の方に『JUTICE HEAVEN』って書いてあったんだ。一回だけ近所であって、しばらくしてから現場を見に行ったから、覚えてたんだよ。きっと」
「そう、ですか」
「悪いことしなきゃ平気だよ」
「神様なら、私達は存在すること自体が罪なんだって判断すると思いませんか」  
 仁実が言っているのが、人間そのもののことなのか、それとも、僕達なのかは、解らなかった。
「そんなことないよ」
 そういう風に考えたくはなかった。
 僕は頭を振りながら最後のロッカーを開けた。

 かちり、
 錠が外れた。
 一瞬、嫌な予感と妙な手応えがあって、
「気を付け――」
 眩しい。
 僕は吹き飛んだ。
 真後ろの小汚ない壁に激突して、
 眩しい。
 もう何も考えられなかった。
 涙だけがぼろぼろと流れた。
 なんだか妙に熱い涙だった。



 甘い、柑橘系の匂いがした。



 ごめんなさい。私、ずいぶんまいってたみたい……
 紫は体を起こして、僕が掛けた毛布を脇に押しやった。
 いいよ、そのまま寝てて。
 そういうわけにはいかないわ。
 紫はまた目を伏せて、メンソールの煙草に火をつけた。一筋の煙が上がった。
 何か飲む?
 明日、出発ね。
 問いには答えずに紫が呟いた。
 ああ。
 お別れ……ね。
 紫はケルベロスのソファに移って言った。
 ああ。
 寂しくなるわ。
 すっかり氷の溶けたオレンジ色のカクテルを、ちょっとだけ口に含んで、紫が言った。 仕方ないさ。
 冷たいのね。
 紫がグラスを頬にあてて言った。
 そうかもな。
 私がここにきて、半月も過ぎたのね。
 紫がどこかを見つめながら言った。
 もうそんなに経ったのか。
 短かった?
 グラスをテーブルに置いて、紫が訊いた。
 どうかな。
 ……



 僕は、双葉に似た女の夢を見た。



 甘い、柑橘系の匂いがした。



 ああ、おかあさん。
 痛いよ。
 そんなに強く僕を抱き締めないで。
 とってもとっても身体が痛いんだ。
 どうしてそんな歌を歌っているの。
 悲しい歌ばかり歌うのはどうして。
 それは多分僕が泣いてしまうから。
 片目のない人形のための悲しい歌。
 僕は裏切られた様な気分になった。


 目が開かなかった。
 声が聞こえる。
 おかあさん。
 あの頃と同じ、悲しい歌。
 囁くように、祈るように、歌い続ける。
 不思議なくらいに懐かしくて、狂いそうなほど優しい。
 夢、なら、醒めないで。
 歌が止まった。
 多分、僕は目を潰されるんだろう。
「夢じゃないわ」
 母が言った。

 甘い、柑橘系の匂いがした。

「目を醒まして、望。もう、起きられるはずよ」
 ダメだと思う。
 だって、僕は悪魔憑きだから。
「大丈夫、ですか、本当に」
 雨の匂いがする声が言った。
「おい!」
 ハスキーな男声が僕を揺さぶって、線香の匂いがした。
 雨と、オレンジと、線香の匂い。
 怖々目を開けると、眩暈がした。
 目が開けられた事だけで驚いた。
 家具が少ない、っていうよりもほとんどないせいでヤケに広く見えるけど、そこは十畳くらいの広さのワンルームマンションらしかった。
 出窓に、観用植物があった。
 やっと生き物の姿を見たような気がして、僕は少しだけほっとした。
 あるはずのない場所。

「落ち着け、望君。外傷はほとんどない。軽い打ち身と少々の火傷だけだ」
 線香の声が言った。
「ここは……?」
「私の部屋」
 柑橘系の声の女が言った。
 彼女がこの彼岸空間の主か。
 彼女はいないはずの人間、
 あの男に連れ去られた子供、
 彼女は夢の中にしかいない女、
 紫だった。
 そして僕は夢の続きだと思った。
「どうして……」
 それ以上、続かなかった。
「夢じゃないわ」
 紫がもう一度言った。
 双葉と同じ顔、双葉と同じ声。
 だけど微妙に違う仕種、匂い。
「仁実ちゃんから電話があって、それで飛んでいったら君が倒れてて、妙な煙が充満してて、おい、一体どういう事なんだよ?」
 線香の声が言った。
 懐かしい声だった。
 その人の顔を見る。
 焦点が一瞬ぼやける。
 似合い過ぎの健康的な浅黒い肌。
 強すぎるエネルギーを持った瞳。
 静脈が一本だけ浮き出した鼻筋。
 広い肩幅と太い腕の丈夫な体格。
 僕はそれが誰なのかやっと思い出した。
「修一、さん?」
「ひどいな、思い出すのにそんなに時間が掛かるのか? 以前はよく遊んでやったのに。まあ、それも十年も前の話だけどな」
「なんで……」
 僕の言葉はまたとぎれた。
「ああ、彼女は加納紫」
「はじめまして、で、いいのかしら?」
 紫が夢の中と同じ顔で微笑んだ。
「知り合いだったの?」
 雨の匂いのする声……仁実が訊いた。
「そっちこそ」
「仁実ちゃんはね、俺の受け持ちの患者。それで、望君は俺のお隣りさん。これでいいかい?」
 修一さんが説明した。
「はい……」
 僕と仁実が同時に答えた。それが見事にハモっていたのがおかしかったのか、修一さんはハハハ、と笑った。
「それで、」
 修一さんは急にシリアスな顔になった。
 この人は変化が激しい。僕はいきなり大真面目な顔になった彼によく驚かされた。笑顔が突然消えて、僕達は不安になる。そしてもう一度笑ってくれると僕達はすがりつきたくなるほど安心してしまう。
 それも、ずっと以前の思い出だ。
「あれは一体どういうことだ? ただごとじゃないな」
「あ、」
 僕が言い掛けて、
「コインロッカーが爆発したのよ」
 紫が事もなげに言った。
「そんなのはあの状況を一目見ればわかる。俺が訊きたいのは、どうして爆発するようなロッカーに用があったのか、ってことだ。それも、こんな真夜中に、わざわざ俺の知り合いが二人で、だ」
「それは……」
 仁実が言い淀んだ。
「あの、僕が、サーカスで、えっと」
「サーカス?」
 修一さんが裏返った声で言った。
「あの、駅前のサーカスか?」
「その、僕の友達の知り合いが……ああなんだか余計ややこしい」
「三人とも、落ち着いて。そんな、急に言われたって、ちゃんと説明できるわけないでしょう?」
 紫が言った。
「それもそうか。じゃあ、今お茶でもれよう。コーヒーがいいか? それとも紅茶? 
 まさか、玄米茶がいいとか言うんじゃないだろうな。ないからな、そんなの」
 修一さんの顔がまた崩れて、人のいい笑顔に戻った。本当に落差が激しい。多分、そこが魅力なんだろう。真面目なときと崩れたときのギャップが、彼が老若男女誰にでも好かれる理由なのかもしれない。

 紫が立ち上がって修一さんを手伝いにキッチンに向かったので、部屋の中には僕と仁実だけになった。
「望さん、あの、これ、」
 仁実がバッグからチケットを取り出した。一番最初のロッカーの中身だ。
「望さんが、持ってて下さい。多分、そのほうが、いいと思うから」
「うん」
「……」
「あのさ、」
「はい?」
「仁実は、どこまで覚えてる?」
「さっきの、ロッカーでの事、ですか?」
「それもそうなんだけど……」
「何の話ですか?」
「割れたステンドグラス、歌う母、えっと、手を繋いだ子供……だったっけ?」
 僕は記憶の中の双葉のセリフを思い出しながら言った。
「ごめんなさい、多分、それは、私の領域じゃ、ないと思うんです」
「変なこと訊いて悪かったね」
「……、望さんは、誤解してるんだと思います」
「……」
 僕は毛布を首まで引き上げた。
 着替えさせられていた服は修一さんの物で、サイズが大きすぎて隙間が多くて、肌寒かった。
「寒くない?」
 僕は仁実に訊いた。
「大丈夫です。さっき、シャワー、借りましたから」
 よく見ると、仁実の髪はまだ半乾きだった。
 そして僕はくしゃみをした。