第四章 花嫁の死/高岡双葉
DEATH
そこに愛はなかった。
きっと、
未来へも続かないのだろう。
このドアの内側でだけ紡ぐ嘘
耳朶で囁く言葉に真実はない
雑音混じりの眩暈の中でだけ
ある筈のない答を欲しがって
息苦しい程に理不尽な執着は
虚しいだけの欲望だと気付く
腐った果実を撫で上げる指は
震える身体を捕えて放さない
朽ちた快楽に酔い痴れながら
狂った雨の様に体温を貪って
瑞々しい果実はもう失われて
けれど息を潜めそっと息衝く
素敵な嘘を囁く声に、
まだ、
騙されたいと思ってしまう。
こんなに爛れた果実なのに。
さっきから吹き始めた強い風が小降りになった雨を霧のように細かく散らしていた。
こんな雨はじわじわと浸透してくるので、土砂降りよりもかえってタチが悪い。
横から霧吹きのように吹き付けてくるので傘が役に立たないからだ。
しかも身体もよく冷える。
……。
目を醒ましていきなりそんなことを考えていた。
頭がぼうっとしている。
事務室の中には僕一人きりだった。
タケルはもういない。
多分、悪化したか回復したかしてどこかに移ったんだろう。
頭の中が死んだみたいになっている。
……緑のことを、思い出していたからだろう。
鬱屈とした気分のまま、僕は強化プラスチックの窓を眺めていた。
人影が見えた。
長身を屈めるような猫背。
髪が吹き乱されて顔に掛かっている。
事務室に戻ってくるつもりらしい。
ドアが開いた途端、風の音が聞こえた。
「目、醒めたのか」
「うん」
「そうか」
彰は黙ってソファに座った。
僕はまた窓の外を見た。
赤い傘を持った人影が見えた。
千洋が誰かと歩いて来る。
かなり背が高い、その割に華奢な感じの、奇妙な衣装の人物だった。多分、あれが夕海の言っていた占い師だろう。
顔は良く判らない。
……さい。
……なさい。
ドアの開く音がしたので振り向くと、占い師の後ろ姿だけが見えた。
一瞬、なぜか悲しい気持ちになった。
「あーあ、濡れちゃった」
制服についた雫を払いながら、千洋が言った。
「ま、仕方ないんだけど」
「解ってんなら言うな」
「だって」
いつまでも続きそうな二人の会話に僕が水を差した。
「あれ、美生は?」
「先に戻ってる、って、……あれ? いないの?」
「え?」
「帰ったんだろ。バイクは?」
「音は聞こえなかったけど」
「そりゃ、あの距離じゃ聞こえっこねえだろうよ」
「それもそうだけど」
「望、ちょっと見てこい」
「彰? 望君、病人よ?」
「俺達だけ濡れてこいつが濡れないなんてのは天が許しても俺が許さねえ」
「そういう問題なの?」
「そういう問題だろ?」
「いいよ、行く」
「本当に……? じゃあ、これ、役には立たないと思うけど、ないよりはいくらかマシだと思うから。一応、ね」
千洋が赤い傘を差し出した。
僕は傘を持ってきていなかった。
「一応、ね。サンキュ」
「気を付けてね」
僕は事務室を出て傘をさした。
雨が、冷たい。
横から吹き付ける雨に、案の定傘はまるで役に立たない。
僕は服も髪もすぐにぐっしょりと濡れてしまった。
水を吸って重くなる服。
額に張り付く髪。
霧のような雨。
強い風。
――あの日も、こういう天気だった。
あの日、
僕は、
逃げて、
逃げて、
高岡双葉に会った。
失踪中のはずの高岡双葉に出会って非道く吹き荒れる風と身体の芯まで浸透する霧雨で濡れた髪が額に張り付いて服が重くてよろけた僕を双葉が抱き留めて逢いたかったとか囁いて僕はろれつの怪しい口で何かを口走ってなんでこんなところになにをしてたんだろう双葉は一体とか考えていたから緑を助けてほしい僕の真意なんかまるで伝わったはずなんかないのに双葉が何かを捜しているような気がして「その娘を助けに行くのね?」僕の勘は絶対に外れない。
雨が、冷たい。
僕は美生のバイクを止めた辺りに向かって走った。
心臓が物凄い速さでばくばくしている。
嫌な予感がする。
濡れた髪が額に張り付いて気持ち悪い。
僕はつまずいて転んで、その拍子に千洋の赤い傘の骨が一本折れた。
双葉はマウンテンバイクに乗り直して坂道を下って電話ボックスがあったのでその中では水滴で双葉の顔が良く判らなくてどのくらい経ったのか解らないけど双葉が傍で何かを囁いて息を切らせているので余計に解らなくて華奢な腕に浮かんだ水滴は雨なんだか汗なんだかうわずった声でいろいろ言われてもなんだか双葉が上着を貸してくれてサイズがぴったりで双葉の体温と匂いで頭が朦朧として僕はまた何か口走って双葉は眉をひそめて「やっぱり一緒に行きましょう」でも双葉の捜し物が何なのか気になってしょうがない。
数時間前の朧気な記憶だけを頼りに美生のバイクを捜した。
似たようなのはいくつかあった。
でも目的の物だけ見付からない。
焦燥、
頭痛、
動悸、
予感、
悪寒、
眩暈、
歯車、
軋む。
軋む。
廃ビルに着くと双葉はまるで道を知っているかのように緑のいる場所へと向かっていって緑は鋭い目が怖いくらいで僕を睨み付けてそれは痛いからなんだとは思いたいけど多分僕は緑の目をまっすぐに見ることができなくて緑の傷口がさりげに手当てされてたりしたことにもまるで気付けないのに救急車に乗って消えてしまった緑はそれきり会ってない。
彰のバイクだけが見付かった。
かなり、嫌な展開だった。
美生が何も言わずに姿を消した。
きっと、
もう、
戻ってこない。
「やっぱり、」双葉が何かを言い掛けてビルの中に戻っていったので僕はなんだか追いかけて何かを忘れているような気がして双葉にあの指輪はどうしたのか聞きそびれていてでもそんなことよりも双葉が捜しているのは何だとしても僕はあの赤いカーペットの部屋にだけは絶対に入りたくなかったのに「ここでしょう?」こんなカーペットなら血を流したって判らないじゃないか。
美生が、いない。
歯車はいつまでも空廻りを続けて、
僕は裏切られた様な気分になった。
双葉がいつの間に持っていたのかは解らないけど鍵で重い重い深紅のカーペットの下の重い重い蓋を開けて暗闇へと続く階段を降りていくと旧い時計が鳴り出した。壁の中から黒猫が僕の前を横切って壁の中に消えた。双葉は足元も見ずに進んでいくから僕はランプが欲しくなった。時計の音が十三回目の音を鳴らし終えて消えてしまうと
眩しい。
光。
僕は何も見えなくなった。
「やっと逢えた
十七番目の水槽で紅い火が燃えていた。
「やっぱり、忘れているのね。教会、火の海、歌う母。思い出せない? 死んだ天使と瓦礫の山、だめ?」
水槽の蓋が開いてナジャが手招きした。
「人形、夕暮れ、タロットカード。手を繋いで逃げた子供達。炎の中で高笑いする母。発生学の凄く前衛的な研究、神性の剥奪、それでもだめなの?」
僕の手の中のタロットカードはこれから彼女の運命を変える。
「だめね、やっぱりあなたは違うのね」
空っぽの水槽の群の中で燃える炎の紅が怖いくらいで
「違うわ」
ふふ、
ふふ、
ふふ、
ねえ、
行きましょう。
生きましょう
逝きましょう。
ふふ、
ふふ、
ふふふ、
ふ
「だめよ、望君!」
僕のてのひらから零れ落ちたのは十三番目のカード。
彼女の運命のカード。
生まれたときから決まっているカード。
「ナジャの囁きを聞かないで!」
歯車は空廻りして、
ぴし、ぴし、ぴし、
軋みが、始まった。
時計が鳴り響く昏い図書館で、横切った猫を追いかけて、遠い記憶を捜しに旅立った。僕達は悲しい歌を歌う母親を置き去りにして教会に連れ去られた。踊り続けるリチウムの炎が怖かったから、割れたステンドグラスの天使は嫌いだった。神性の剥奪は僕達にはどうでもいいことだった。ただ殺されるのは嫌だったから逃げた。右腕のナンバープレートを捨てて僕達は普通の子供になった。名前と家を与えられて、僕達は人間になった。
僕には希望の名が与えられた。
外は激しくなった雨だった。
双葉はとても衰弱していた。
不安気な瞳で僕を見ていた。
「ねえ、見て」
双葉のてのひらには、銀色に光る指輪が乗っていた。
「私、ずっとこれを捜してたのよ。
どうして、
どうして私を殺したの?
あなたの記憶に無いのなら、私は死んだのと何も変わりはしないわ」
雨ではない雫が指輪を濡らした。
「出逢い、
別れ、
擦れ違い、
それでもずっと、
もう一度、
私はあなたを、
その続きは永遠に聞くことができなくなってしまった。
眩しい。
ハイビームが、視界を閉ざして――
僕達は弾け飛んだ。
フレームもスポークも弾け飛んでタイヤも外れてハンドルも湾曲ってぐしゃぐしゃになったマウンテンバイクと流血でどろどろになって怖いくらいに体を捩らせて顔が歪みまくった双葉が道に不吉なオブジェのように転がっていて轢き逃げの車はナンバーも読み取れなかったし僕は指輪痛い痛い頭が痛い気になって双葉は血塗れで雨で流れてそれでも綺麗で身体中がいたくて双葉は僕は頭は破れそうに痛いやっとのことで手繰り寄せたのに双葉のてのひらから指輪が零れ落ちて長い長い坂道を転がり落ちていってSのビルからは白い影だけが残って後は何も覚えていない。
双葉は今度こそ完全に消えてしまった。
「望君、望君ってば! ねえ、しっかりしてよ!」
千洋?
「何回目だよ? 相当キてるな。次で終り、ってとこだな」
彰。
何て無情なヤツなんだろう。
雨の音が遠い。
……明るい?
怖々目を開けてみる。
眩しい。
眩しい。
眩しくて、涙が出る。
僕はまた目を閉じた。
……、指輪を捜しに行かないと。
「指輪?」
「何言ってるの?」
「落ち着きなさい、二人とも。彼はまだ大丈夫。死んだりはしないわ。ほら、その証拠に喋ってるでしょ?」
「夕海さんよお、これは喋ってるんじゃなくてうわ言ってヤツだろ? 大丈夫そうには見えないね」
千洋はともかく、彰もあれでも取り乱してはいたらしい。
安心した。
「落ち着きなさいったら! ただでさえ他の連中の怪我だの病気だので持て余してるっていうのに」
「でも、望君、死んじゃう……」
「死なないわ。少なくとも、私が死なせはしないから」
「でも、こんなに血が……」
どうしてこんなに意識ははっきりしてるのに身体は全然動かないんだろう。
「額の傷は大袈裟に流血するのよ。見た目より全然傷は軽いの。数時間もすればすぐに治まるわ。……それよりも目を醒まさないほうが心配だわ。場所が場所だから」
「やっぱりヤバいんじゃねえかよ!」
ヤバくない。
全然ヤバくない。
だから、早く、
早く指輪を捜しに行かないと。
「だから指輪って何なんだよ! 美生はどうなったんだ? おい、望! 答えろよ!」
美生。
どこにいってしまったんだろう。
家には帰っていないような気がする。
だったら千洋が電話して確かめてるはずだし。
「彰、あんまり刺激しちゃダメだよ……」
「うるせえ! なんでもいいから早く目を醒ませ!」
こんなに狼狽えた彰を僕は初めて見た。
いや、見てないんだけど。
だって、目、開かないし。
この感動を伝えてもっと凄いものが見られるなら僕は目を醒ましてやってもいい。
……。
ダメでした。
「おい、望!」
身体が揺れる。
って言うか揺さぶられてる。
なんだか見事なビンタが決まった音が響いた。
「何やってるの! 元はと言えばあなたが雨の中病人を外に出させたりしたから悪いんでしょう? 安静だ、って言わなかった? 仮に言わなくても常識で解るでしょ? わきまえなさい!」
沈黙。
「……とにかく、この子は私が責任をもって治療するから、あなた達は今日は引き取ってもう時間も遅いし、家族も心配してるわ」
「家族だと? 解ったような……」
口をきくな、とか言いたかったらしい。
千洋が制した。
「彰、帰ろうよ……。あの、望君の意識戻ったら何時でもいいから連絡下さい。これ、私の携帯の番号です。じゃあ、お願いします。望君、バイバイ」
千洋はいくら払ってもいいから欲しいとか言うヤツまでいるらしい携帯の番号入り名刺を渡したらしい。
僕は手を振ろうとした。
……。
ダメでした。
ドアが開く音がして、二人は事務室を出ていった。
僕はなんだか寂しくなった。
「ケル、」
一言も喋らなかったから気が付かなかったけど、ケルベロスもここにいたらしい。
「ミドリを呼んできて」
緑?
「手に負えない、のか?」
「そうでもない、と思うけど」
「だったらあの娘に頼らずに自分でなんとかしたほうがいいんじゃないか? エメラルドはタケルの言う事しかきかないんだぜ?」
エメラルド?
翠、とでも書くんだろう。
「CTも何もないのにこれ以上どうしろって言うのよ? それにこの子はもうとっくに目を醒ましててもおかしくない状態なのに」
「そうなのか?」
「そうなのよ。少なくとも私の管轄からはもう離れてるわ」
「お前が言うならそうなんだろう」
ドアの開く音。
雨音。
「夕海、タケルはもうだいぶいいわ。それでこの子は何?」
「ケルのお客さん、の友達」
「で?」
「私じゃ若干手に負えないっぽいから、あなたにお願いしようと思って」
「この子は私じゃだめよ。だって、取り憑かれてるもの」
「翠、」
「ああ、夕海はこの表現が嫌いなのね。精神的なものに起因する異状、でいい? は私の管轄外だもの。
DEVIL MUST BE DRIVEN OUT WITH DEVIL.
悪魔憑きは悪魔憑きに担当させて。私でどうこうできるレベルじゃないわ」
「やっぱり、精神面で問題が?」
「だって意識はあるんでしょ?」
「私には判らないわ」
「あるわ。この子は意識ははっきりしていて解りやすい表現で言うなら金縛りの状態なわけ。ただ、自分では身体を動かせないだけなのよ」
「神経系とかに異状があるとは考えられないの?」
「それはあなたの管轄でしょ」
「そうだけど」
「シヴィルに頼むのね。それが嫌なら本格的な病院に連れていくしかないわね。それか、エクソシストのいるカトリック教会とか」
「この街の医者に関わるのは嫌なのよ」
「……それも仕方ないわね。タケルのいた教会は……ああ、あれはもう無いのね。どのみちそんな方法じゃ治りはしないだろうけど。やっぱりシヴィルに頼むしかないようね」
「そう、ね」
ドアの開く音。
「エメラルド、タケルの所に戻ってくれ」
ケルベロスの声。
「また発作?」
「ああ」
「夕海、この子はすぐにでなくても大丈夫そうだし、あなたも来て。タケルが心配だわ。今日になってから病状がひどいのよ。シヴィルは誰かに呼びに行かせるから」
「……そうするわ」
しばらくはあわただしく、僕はその間ほったらかしにされ、頭の中に空白ができた。
双葉は死んだ。
僕が、殺した。
僕は僕の記憶の中から双葉を消し去り、現実にやっと逢えた双葉の運命を狂わせ、この世界からさえ双葉を消し去った。
車に撥ねられた後、僕は双葉の上に落ちたおかげで大きな怪我はなかった。当然のように双葉は重体だった。僕は痛む頭をなだめながら立ち上がり、緑の救急車を呼んだ電話ボックスに向かった。まず警察に掛けた。口が上手く回らなくて、時間が掛かった上に悪戯電話に間違われそうになってますます時間が掛かった。次に救急車を呼んだ。喋っている最中に力尽きて電話ボックスの中で僕は気を失ってしまった。
目を醒ましたのは救急車が来るちょっと前だった。
白い影が血塗れの双葉を引き摺ってビルに戻っていった。
僕はなにもできなかった。
声も上げなかった。
何だかもうどうでもよかった。
ただ、ナジャ
違う、
双葉の言葉の何かが気に障って、
死んでしまえばいいと思った。
僕も双葉も。
裏切られた様な気分がして、
僕はただとても悲しかった。
僕は双葉の運命を狂わせて、
それも運命と嘲笑っていた。
ただ僕は何も知らなかった。
約束も罪もそういうの全部、
銀の指輪に誓った事さえも、
リチウムの炎の中に捨てて、
何も彼も忘れて逃げていた。
出逢い、別れ、擦れ違って、
それでもずっと想い続けて、
彼女は僕を待っていたのに。