第三章 月との距離/桐生緑
    The moon








 月は太陽に憧れて
 僅かな時間の逢瀬を惜しむ
 太陽は月に焦れて
 蒼冷めた空に想いを巡らす
 色褪せた月は眩い太陽に
 狂える太陽は涼しい月に
 出会い
 別れ
 擦れ違う
 闇夜の月に日輪は明るすぎて
 消え逝く恋心を
 灼熱の生命に
 やがて
 暗黒星に出会うまで
 真昼の月は儚く
 白昼の太陽に月光は寂しすぎて
 逃げ去る恋心を
 暗闇の幽魔に
 いつか
 暗黒星に出会うまで








 おねがい、望。


 緑。
 桐生緑は、僕の家の隣に住んでいて、お父さんは開業医をやっていた。緑のお父さんの専門は産婦人科だけど、町医者に良くあるように、内科や簡単なものなら外科なんかもやっていた。
 僕と緑は同い年で、近所には他に年齢の近い子供がいなかったのもあって、ほとんど姉と弟みたいに一緒に育った。僕は母子家庭だったから、母さんが仕事で遅いときは晩御飯を御馳走になったりもした。
 いつも緑と二人で遊んだ。
 緑は怖がりで内気で、そのクセ狡猾なところもあって、自分が半年ほど早く生まれたからってお姉さん気取りで自分がやりたくないことは僕にやらせたりする。例えば、お化け屋敷に先に入らせる、とか。
 そんなときは何時も僕は自分と緑との間の永遠に縮まることのない六カ月の距離を恨んだりもしたけど、それはそれで楽しかったしかえって良かったのかもしれない。

 僕達の住んでいたのはいわゆるニュータウンで、とか言っても実際はできてからその頃でもう十五・六年は経っていたんだけど、要するに住宅街だった。駅までの間にアーケードがあって、今ではかなり地価も上がっているらしい。
 ニュータウンだった時代にはかなりの家が新築された。僕や緑の家もそのうちの一つでって言うか二つで、狭い土地に何軒もの家があるので、一軒一軒の間隔は建築法とかそう言うのに引っ掛かるんじゃないかってくらいに狭い。
 僕の部屋は東向きで、緑の部屋は西向きで二人とも二階で、お互いにに庭なんかはないから、僕と緑は下手をすれば物理的には家族よりも近い距離で寝たり起きたり時には考えたりしながら生活していた。だから僕の部屋の窓を開ければ緑の部屋の窓が見えるし、ちょっと大きな音だったら聞こえてしまう。いくら緑がカーテンを閉めようが僕のブラインドが上がっていれば緑のシルエットは見えてしまう。緑の側も同じ事だけど。
 必然のように気まずく、当然のように親密に、手を延ばせば触れられそうな距離で、でも手を伸ばしても触れられない距離で、僕は緑を、緑は僕を、好きだった――多分。


 緑のお母さんの訃報を聞いた朝は、春の初めで、僕は中等部の、緑は中学校の三年になろうとしていた。
 風が強くて、まだ少し肌寒くて、太陽が昇ってもまだ月が残っていて、空もぐずついていて、なんだか妙に安定しない日だった。

 その日、僕は凄く嫌な夢を見て妙に早く目が醒めてしまった。こんな日はかなり高い確率で、って言うか確実に嫌なことがあるから僕は二度寝をしようと試みた。ベッドのぬくもりを逃がさないように、布団をしっかりと首まで引き上げて、瞼を閉じた。
 案の定眠れない。
 住宅街の狭い隙間を通り抜けて鳴る風の音が不気味で、結局僕はいつまで経っても眠ることができなかった。
 ブラインドの隙間から見える緑の部屋のカーテンが少し揺れたような気がした。
 気のせいだ。
 緑はもうあの部屋にはいない。
 僕はもう一度瞼を閉じてとりあえず何も彼もを忘れてみることにした。


「望」
 いつの間にか二度寝は成功していたらしく僕は自分の神経が意外と太いのにちょっとだけ驚いた。
「望……起きて」
 僕は誰かに起こされた。
 ……寝起きで、頭が回らない。
「何?」
「望」
「何、母さん」
「お隣りの緑ちゃんのお母さんがね、昨日……今朝? に亡くなったそうよ。お母さん、ほら、望のこととかでいろいろお世話になってたじゃない? お葬式の準備とか、えっと……告別式? お通夜? そういうのをね、手伝ってほしいんだって、緑ちゃんのお父さんがね、」母さんはなんだか上の空のままそこまで言って、「望、緑ちゃんが帰ってきてるのよ」
 支離滅裂に続けた。
 緑のお母さんがずいぶんと前からどこだかにできた癌で入院していて、しかもすでにあちこちに転移しているからそう長くはないらしいって言う話は聞いてたし、緑がもう帰ってきているって事は少なくとも昨日辺りから危篤状態くらいにはなっていたんだろう。
 あのカーテンの揺れは、気のせいではなかったみたいだ。
 僕は早朝、しかも眠りかけたときにいきなり起こされた状態で、頭の中は勝手に回り続ける様々な映像のせいで飽和状態だったからなんだか身近な人が死んだと言う事実を上手く飲み込めていなかったらしい。
 今にも崩れてきそうな廃車置き場。
 迷路のような冗談じゃない路地裏。
 有名な幽霊のいるひどく古い教会。
 どれも僕達の大好きだった『探検』スポットだった。
 僕は緑に手を引かれ、僕は緑の手を引いて迷って怖くて泣いて、それでもドキドキして楽しくて叫んで笑った。
 でも、今は都市開発の波に洗われてそのどこもが建て売り住宅やショッピングモールの一部に変わってしまった。

「望、それじゃあ、お母さん、行ってくるわね。緑ちゃんにも声を掛けてあげなさい。朝御飯はパンがあるから、適当に食べて。……それから、ジャムが切れてるのよ。マーガリンで我慢してちょうだいね」
 母さんはなんだか訳の解らないことを口走って上の空のまま僕の部屋を出ていった。
 別に僕はジャムよりマーガリンが嫌いだとかそういうわけじゃなんだけど。
 まあいい。
 低血圧。
 家系なのかもしれない。
 僕も母さんも朝は弱い。

 僕は事態もよく把握しきれてないまま、とりあえず窓の傍に行って、緑、と呼び掛けてみた。
 窓もブラインドも閉めっぱなしで。
 僕は笑いもせずにやけに真面目な顔をして注意深くブラインドを引き上げた。
 そう言えばここしばらくはまともに笑ってないような気がする。嫌な事ばかり立て続けに起こったからだ。
 窓を開けると、春の初めの埃っぽい乾いてるんだか湿ってるんだか解らない強い風が部屋中に吹き込んで、ゴミ箱からはみだしていたコンビニのレシートを吹き飛ばした。

 一番上まで引き上げたはずのブラインドが軋んで、死にかけて地面に落ちた蝉の泣き声みたいな音を立てた。
 眩しい。
 様々な形の、それでも良く似た住宅がひしめきあっている街に、目が痛くなるような朝日が差していた。

 緑が市外の中学校に進学して寮に入ってしまってから、僕達は以前のようには会えなくなってしまった。
 僕が窓を開けても誰もいない部屋の閉め切ったカーテンが見えるだけになってから、もう、二年が経っていた。
「緑」
 今度はちゃんと呼び掛ける。
 返事はない。
「緑」
 もう一度。
 寝惚けた声が風に引き裂かれて届かない。
 こんなに近くにいるはずなのに。
「緑!」
 ムキになって叫んだ。
 カーテンが開いた。
 緑は中学校の茶色い制服を着ていた。ベッドの上には大きなバッグが置いてあった。
「望君」

「望君」
 久し振りに見た緑は、なんだかやけに大人だった。女の子の成長期は早い。制服の胸の辺りや、ちょっと細くなった顔や、そういったちょっとした事が少しずつ僕の知っていた緑とは違っていた。美生や、双葉や、僕の知っているどの女の子とも違う、何か。
「緑、」僕は第二時性徴期特有のざらついた声で呼び掛けた。
「うん」緑は少しうつむいて制服の胸のリボンをいじった。緑の癖だ。変わってない。
 僕は少しだけ安心した。
「望君、変わった?」
 そう言えば少し顎に髭が伸び始めている。起き抜けだからいつもより濃いのかもしれない。
「緑ほどじゃないよ」
「そうかな」
「うん」
 駄目だ、続かない。
「――」緑が何か言った。強い突風が吹いて声は掻き消され、僕には届かなかった。
「何?」
「家にいたくない……」
「……」
「ねえ、私と一緒に逃げ出そうよ。
 ――おねがい、望」


 『おねがい、望』は緑の裏技で、僕に頼み事をする時だけ使う、僕にだけ効く、取って置きの魔法だった。いつもはちゃんと君付けで呼ぶのに、頼み事がある時だけはちょっとした媚を混ぜた声で呼び捨てにする。
 そして僕はこの魔法に逆らえない。
 要は惚れた弱みとかそういうヤツなのかもしれないし、もしかして僕には隷属願望があるのかもしれない。でも他の女友達に呼び捨てにされても全然平気だから、多分そこまではいってない、と思う。
 そんなわけで僕と緑はまだ目醒めていない街に抜け出した。


 以前、初等部の頃はよくこうやって緑と待ち合わせをした。家が隣なんだから一緒に出ればいいんだろうけど、こういうのってデートみたいでいいね、とか言われると僕も少し緊張した。
 待ち合わせの場所はいつも中華料理屋の向かい側の自動販売機がたくさん並んでいるところで、緑は『VEND AREA』と言う看板のDとAの間のスペースの下のコークの自販に寄り掛かって待っている。
 いつも緑のほうが早い。
 そして、目を細めて僕が来るのを確認すると、『遅い』と言って怒る。
 多分緑はそれがやりたくて必死に早く支度して出掛けてるのかもしれない。
 待ち合わせて何をするのかと言えば、せいぜいがコンビニで買い物をしてから遊びに行くくらいだった。ゲームセンターでもいけばまだおとなしいほうで、ほとんどの場合はその頃はまだたくさんあった心地よく秘密めいた場所の『探検』だった。
 『探検』が好きだったのは僕よりも緑のほうで、面白そうな場所を見付けてきては僕を誘った。


 早朝のアーケードはある意味で結構不気味だったりする。
 店と言う店のシャッターは下りていて、人通りは全然無い。普段はどこからこんなに人が出てきたのか解らないくらいにごった返すくせに。
 夜の学校とかもそうだけど、普段人気があって当たり前の所に誰もいないって言うのはそれだけで無意味に怖い。
 なんだか、世界中に僕しかいなくなったような気分になる。

「遅いよ、望君」
 僕の顔を見るなり、今日も緑が言った。
「ゴメン」
 僕はちょっとだけ安心して、適当に言い訳する。
 何も彼も、二年前の、あの頃のまま。
 それから、コンビニに行って、必要もないのに余計なものまで様々買い込んだ。
 緑が生理用品を買ったのだけ、以前と違った。


「どこに行こうか」
 コンビニを出て、僕が聞いた。
「ね、『探検』しようよ」
「……緑、身体以外はガキのままなんじゃないの? 僕達、もう十四歳だろ?」
「いいじゃない。ね、行こ」
 緑がすねたように呟く。左手で白いブラウスの襟をいじっている。
 緑の以前からの癖だ。
 変わってない。
 僕はちょっとだけ嬉しかった。

 あの頃、僕達が大好きだった廃車置き場も複雑すぎて必ず迷子になる路地も、再開発の波に洗われてしまって、いまはもう姿を消してしまった。
 みんな消えて、跡に残ったのは僕達の記憶と建て売り住宅だけ。

「……にあるビルの持ち主が、改修工事の最中に蒸発しちゃったんだって。だから、今、そこ、廃ビルなの。入り口がね、壊れてて、そこから入れるみたいだったし、ウワサだと市が買い取って何かの施設にしようって言う動きがあるみたいだから、できればそうなる前に望君とまた『探検』したいな、って思ってたの」
 最初のほうを聞きのがしたので緑が言ったビルがどこら辺にあるのか解らなかったけど多分、旧工業地区時代の名残の関連会社のビルがたくさんあった辺りのことだろう。以前はこの街一番の栄華を誇っていたのに、今はすっかり廃れてゴーストタウン状態になっている。
 そう言えばそんなビルのウワサを聞いたことがある。
 何年も前から幽霊が出ると言う噂があって次々に社員が止めていったSと言う会社のビルだ。
 その幽霊は三十代の男性だ、とか、いや若い女だ、とか、宙に浮かんだ腐りかけた嬰児だ、とか、
 物陰で笑う少女だ、とか、
 色々。
 要するに嘘なんだろう。
 僕は信じちゃいなかった。
 でも、ちょっとだけ怖い。
 そこに行くには延々坂道を上らなくちゃいけないから体力的にもキツいし。
「……嫌?」
 緑が切なげに呟いた。
「……」
 僕はかなり迷っていた。そのビルからそう遠くもない学校に通うのにもバスを使っている僕的には、辿り着く前に体力を使い切ってしまうのは間違いない。
 それに、あの長い坂道を上るのにはなぜか抵抗がある。
「おねがい、望」
「いいよ、行こう」
 結局僕はOKしていた。
 この魔法には逆らえない。
 それに、どうせ逃げるなら、遠い方が都合もいい。
 なんとなく。

 長い、長い、坂道。
 僕は、時折ほんの少しだけ何か懐かしい匂いを運んでくる強い風の中で、ゆっくり上昇を続ける太陽を見た。
 ――それは下に
「こっちよ」
 緑が脇道の入り口に立って手招きした。
 ……。
 違和感。
 違う。
 これは――、
 既視感?
 僕の頭の中でも何かが手招きしている。
 ――あって、重い重い
「何してるのー?」
 緑が叫ぶ。
 風に短い髪をなびかせている。
 ――フタを開けるとそこ
「はやくー!」
 緑がもう一度叫ぶ。
「今行くよ!」
 僕は頭を振って正体の判らない何かを追い払った。


 3階建ての廃ビルに着いた。
 深呼吸して見上げると、不自然なほど大きく見えた。
 目を閉じて頭を振ってからもう一度見るとそれは何の変哲もないただのボロいビルに見えた。
 入り口は緑が言っていたように壊れていて……って言うか壊されていて、『立入禁止』の札が申し訳程度に傾いて下がっていた。
 侵入はかなり簡単なようです。
 『探検』には適当と思われます。
 ああ、なんだか頭の中が子供モードに切り替わっている。
 窓はほとんど全部塞がれるか割られるかしていて、とってもアナーキーな雰囲気を醸し出している。割れてガラスが残っている窓からセメントの袋や鉄パイプなんかが残っているのが見えたりして、いかにも工事を途中で止めました的ないい加減な雰囲気が漂っている。

 ――それは下にあって、重い重いフタを開けるとそこには、地下に続いている暗い階段があって、僕がナジャと一緒に降りて行くと――

 違う。
 違う。
 妙な違和感。

「ねえ、早く行こうよ」
 緑が言った。
 すごく、嫌な予感がする。
 ――ここに来たことがあるんだろう?
 ――懐かしいんだろう?
 ――だって、ここには僕の
 まさか。
 初めて、だよ。

「――」
 緑が何か叫んだ。
 風に千切れて、緑の声が届かない。
「何ー?」
 僕は精一杯声を張り上げて叫んだ。
 少しだけ、かすれた。
「早く、中に、入ろうよ!」
 風が急に強くなって、白いブラウスが膨れ上がった。

 中に入ると、少しだけ、風の音が小さくなった。
 窓が塞がれているせいで、一部の隙間からや壊された窓から差し込む光線が届かない場所が多くて、暗かった。外は薄曇りだったけど太陽が見えていたのでそれなりに明るかったし、視力があんまり良くない上に鳥目の僕の視力は一気に落ちた。
 暗いのは苦手だ。
 怖い、わけじゃない。視界がきかないのが嫌だ。
「んー、なんだか、懐かしくない? こういうの」
 緑が埃っぽい、でもなんだか甘いような空気を吸い込んで呟いた。
「うん」
 僕は短く答えた。
 やっと少しずつ暗がりに慣れてきた僕の目が、そこら中に積まれっぱなしになっている資材を見付けた。
 どこか遠くの部屋の、床に敷かれた血のようなワインレッドのカーペットを見たとき、よく解らない悪寒に似たものが僕の背筋を駆け抜けた。
「さ、始めよ」
 緑が言った。

 近くにあった鉄パイプの束から二本抜き取って、僕達は武器にした。
 なんとも頼りない。
 冒険に出たばかりのレベル1の勇者だってもうちょっとましな装備をしている。
 でも、ほんの少しだけ、僕達はヒーローとヒロインになった気分を味わいたかった。
 銅の剣やアタックナイフじゃなくたって、これでも人だって殺せるんだから。

 高々三階建てのビルなのに、屋上に上り詰めた頃にはもうお昼を過ぎていた。って言うか三時のおやつに近い。
 三時のおやつ。
 幼稚園児的な発想に自分でも驚いた。
 まあいい。
「緑、おやつにしよ、おやつ」
「ねえ望君、私達お昼もまだよ?」
「三時のおやつにお弁当を食べる。完璧」
「子供なのは望君のほうじゃない」
「男はいつまで経っても子供のままなの、って言うか、十四歳ってまだ子供だろ?」
「刑事事件の責任はとらされるよ」
「まあね」
 屋上で見上げる空には、怖いくらいのスピードで流れる雲と、もう昇ってしまったのかそれとも朝からずっといたのか、どこか場違いな月が、不安そうに浮かんでいた。
「あれって満月かな」
「満月は昨日」
「じゃあ、十六夜」
「……あれはただの欠け始めた月。後はもう、欠けていくだけなの」
「うん」
「……」
「……」
「ね、望君とずっと同じクラスだった娘、元気?」
「美生のこと?」
「うん」
「んー、別に、普通」
「仲良かったよね、確か。……最近、何か変わったこと、ある?」
「変な友達ができた」
「変?」
「うん。成績も普通、性格も悪いヤツじゃないし、見た目もとくに特徴がない。要するに群衆の中に埋没する傾向の強いタイプ。で、彰、ああ、そいつ彰っていうんだけど、そいつの彼女がね、すごいハデなの」
「彼女……望君も、いるの? 例えば……美生ちゃんとか」
「僕はいないよ」
「本当?」
「本当」
「なんで?」
 緑が好きだから、なんて言えるか。
「いいだろ。モテないんだ、単に」
「望君、魅力ないわけじゃないのに」
「ありがとう。素直に受け取っておく」
 そう言って答えた僕の声は全然素直じゃない。
「そういうのが問題なのかなぁ?」
 緑は簡単に見抜いてしまった。
「いいだろ。ほっといてくれ」
「すねないでよ。続き、ほら、彰君っていうひとの彼女の話」
「……双葉は……、確かに、美人、なんだけど、何て言うか、えっと」
 なんだかしどろもどろだ。
「その、考えてることが全然解らない。人の気持ちも考えていないみたいで」
「望君はその人のこと嫌いなの?」
「そうじゃないよ。……ただ、なんとなく、双葉の傍にいるとざわざわするんだ」
「フェロモンが濃い目なのね」
「そうなのかも」
「でも、」緑が薄い緑色だった錆びたフェンスを見詰めながら言った。「いいな、そういうのって。私、編入生だからかなー? あんまり友達できないの。話が合わない感じなのだから、望君みたいになんでも話しちゃえる人とかいなくて」
「僕でよかったら、何でも言ってくれていいよ」
「ありがと」

 僕は緑に、小さな嘘をついた。
 彰の彼女がいなくなって、何日か経つ。同じくらいから、美生も学校にこなくなった。彰の彼女の高岡双葉と違って、美生に関する情報はいろいろな筋から入ってくるから、多分こっちは失踪じゃない。
 心配じゃない、っていったらウソになるけど、美生はどんな環境にでも馴染めるから、多分、大丈夫な気がする。凄く薄情な気もするけど、僕に連絡してくれない美生も悪い。なんて、別に僕は美生の彼氏でも何でもないんだけど。
 美生は美生で、勝手にやればいいんだ。僕は僕で、好きにする。

「そろそろ帰ろうよ」なんとなく気まずくなって、僕は言った。
「まだ、いい」
「……」
 風が、少し弱くなった。

「あー、飛行機」緑が空を見上げながら呟いた。僕も上を向くと、真っ白な飛行機雲を一直線に描いて、小さな白く光る点が飛んでいた。周りの雲のスピードが速すぎるせいで、いつもよりゆっくりな気がした。
「緑さ、飛行機、乗ったことある?」
「うん、一回だけ」過ぎ去っていく飛行機を目で追いながら緑が答えた。
「いつ?」
「ずーっと、前。お母さんと、お父さんと、お兄ちゃんと私とで旅行したとき――」
 そこまで言って緑は口を閉ざした。
「望君、私――」
「何?」
「……なんでもない」
 緑は落ちていたコンクリートの破片を拾って、フェンスに向かって放り投げた。

 それ以上、訊けなかった。
 多分、それは緑以外の誰にも解決できない問題だから。
 緑は今、僕が何も知らないうちに越えてしまったフェンスの向こう側で、ためらっている。
 こっち側に来たいんだ。
 でも、その方法を知らない。
 世の中には幾つもの厄介な柵があって、それを越えるのは物を知らなければ知らないほど簡単にできてしまう。失敗すれば傷だらけになってしまうし、そこで立ち止まったままでいるわけにもいかない。
 どこにも行けなくなってしまうから。
 時にはそれを上手く避けてしまう人もいるし、まったくぶつからずにいるラッキーな人もいる。
 でも、ほとんどの人はどうやって越えるかで悩んでしまう。
 僕は自分でも気が付かないうちにそのうちの一つをクリアしていて、今、緑は似たようなフェンスの前で戸惑っている。
 似てるだけで、同じじゃない。
 同じ物なんて存在しない。
 だから、ややこしい。
 僕にはやっぱりどうしようもない。
 僕は緑の真似をしてコンクリートの破片を放り投げた。

 まだ帰りたくない、と緑は言った。
 もう帰れないんだ、と僕は思った。
 それで、僕達は『探検』の次に好きだったかくれんぼをした。
 右腕の時計の歯車はもう五時を回りかけていた。

 二人きりでするかくれんぼは今一つ燃えない。なぜなら、僕達は必然的に交替で鬼をしなければいけないからだ。だから、僕は正直乗り気じゃなかった。
 本当はいい年齢になってかくれんぼをするのが恥ずかしかっただけかもしれない。
 だって以前は二人きりだってあんなに楽しかった。
 やっぱり、僕は変わってしまったんだろうか。
 それは、ちょっとだけ、切ない。
 だから、
 身体のイライラをふっきるように、
 心の空白を埋めるように、
 僕はかくれんぼに没頭していった。

 時計の歯車は容赦なく廻って、夕暮れが近くなった。
 空が、うっすらと群青色に染まり始めて、沈みかけた太陽が怖いくらい大きくて、『ただの欠け始めた月』はそろそろ輝き始めて、僕はなんだか不安になった。
「そろそろ、帰ろうよ」
 二十何回目かの鬼になった緑にみつけだされたとき、僕は言った。
 じゃんけんが異常に強いというよく解らない性質を持っている僕と、それを知り尽くした緑との間の暗黙の協定で、かくれんぼの鬼はいつも僕から始まった。そして規定時間以内に緑を見付けられない場合はもう一度僕が鬼になる。
 いくらじゃんけんが強くてもそれが通用するのは初対面の相手だけで、慣れてしまえば僕はじゃんけんのメンバーから外されてしまうのでこんな性質は何の役にも立たない。
「もう一度だけ、おねがい、望」
 そして僕は最後の鬼を任されてしまう。

 アイスおごって。おねがい、望。
 一緒に遊んでよ。おねがい、望。
 おねがい、望。
 本当に小さい頃から、記憶に無いくらい以前から、何回も、何回も『おねがい、望』を聞かされてきたから、僕の中でそのフレーズはちょっと特別なものになっていた。
 どうもこの魔法の秘密はその辺にあるらしい。

 屋上は風が強かったので、僕達はもう動かなくなった、もう二度と動かないハズのエレベーターの前で百からカウントダウンすることにしていた。
 ひゃーく、きゅーじゅく、きゅーじゅはち……

 夕闇が襲いかかる。
 ナジャが顔を出し、囁き始める。
 風の音が邪魔して、何も聞こえない。
 僕はカウントダウンを早める。
 怖い、
 どうしようもなく怖かった。
 僕は押し寄せる恐怖に負けそうだった。
 親に黙ってこんな所でこんな時間まで遊んでいた事が、じゃなくて、夕暮れがやってくるのが、怖かった。
 幽霊なんかの怖さの比じゃない。
 だんだん、
 傾きかけてくる太陽の光が、
 ゆっくり薄暗くなる風景が、
 血の色に染まって行く空が、

 真夜中でも全然平気なのに、夕方が怖かった。
 どうしても、その時間帯だけは、窓を閉めて部屋に閉じ籠っていたかった。
 ただ、
 どうしても怖くて、

 時間が歪んで、在るはずない物、在ってはいけないはずの物が現れそうな気がした。
 頭の中にダイレクトに侵入してくる夕暮れの光が、
 闇を削って燃えるリチウムの紅い炎が、
 怖かった。


 はやくかえろうよ
 ナジャが囁いた。
 はやく、はやく
 僕は焦った。
 夕闇を引き裂いていくリチウムの紅い光が怖い。
 カウントダウンが、バカバカしい程早口になった。
 はやく、もっとはやく
 さん、にい、いち、……ぜろ。
 ハイスピードでカウントダウンを終わらせ僕は緑を探しに出掛けた。
「緑?」
 僕は山積みのパイプの影に隠れようとしている、白いブラウスの背中を見付けて少し安心した。
「緑?」
 僕は自分でも情ないほど心細そうな声で、もう一度そっと声をかけた。
 慌てた緑が鉄パイプの後ろに逃げ込もうとしたとき、緑の白いブラウスの右肩が鉄パイプを引っ掛けた。

 鉄色の山が崩れる。
 その鉄パイプは僕や緑がいた方から見るとただの筒で、比較的安全そうに見えた。
 でも、反対側はジョイントのためなのか鋭くなっていて、そのうち一本が緑の左の首筋から右の脇の下までを大きく裂いた。
 白いブラウスに、真っ赤な血が滲む。

 僕はそこから逃げ出した
 白い人影が見えたのも
 僕を追う緑の悲鳴も
 押し寄せる夕闇も
 全部振り切って
 ただ逃げ出し
 逃げ出した
 逃げ続け
 逃げた
 逃げ
 逃

 僕と緑の距離はどこまでも広がって、
 致命的なまでに離れてしまったのに、
 僕は、
 多分、
 逃げることしか、考えられなかった。
 きっと、
 もう、
 緑は、
 風が強くて僕には緑の声が届かない。

 いつの間にか、雨が降り始めていた。