第二章 リチウムの星/ナジャ
The star
埃で乱れたスクリーンの向こう側には、
そこには安らぎと記憶だけがあって、
煤けて眩しすぎる光の中では僕は、
喧騒と退廃が谺したあの教会の、
きっと今はもういない天使達、
砕け散ったガラスに映る空、
僕には5人の仲間がいた。
右手に を握り締めて。
……?
どこか、小さな部屋の中らしい。
僕はそこがさっきの事務室風の部屋だというのに気が付くのに何秒かかかった。
僕はさっきまで四人で腰掛けていたソファに寝かされていて、おかげで美生や千洋、それに彰にケルベロスまでもが立っていた。
別に、もう一つソファはあるんだからそっちに座ればいいのに。
と、思ったらそっちのソファにも誰か寝ていた。顔は見えないけど、大体僕と同じくらいの体格。やけに髪の色素の薄い、でも千洋みたいにブリーチしているわけでも彰みたいに傷んでいるわけでもない、もっと自然な感じのブラウン。別に彰の髪は茶色くないけどただ毛先が揃ってなくてあっちこっち好きなように跳ねてるだけ。長さ的には彰よりもちょっと短いくらい。僕の髪は短くてちょっとクセ毛で、それとは対称的にさらさらでストレートの美生がちょっとだけ羨ましいとか思ったこともある。クセ毛って朝の寝癖がひどくて嫌だし。
……なんで髪のことなんか考えてんだ?
訳が解らなくなった。
部屋を見回してみる。
入り口のところに彰。
その隣に千洋。
反対側に美生とケルベロス。
僕の向かいのソファでは色素薄い人が小刻みに体を震わせている。さっきは気が付かなかったけど、その枕元には眼鏡の女の人がいる。ケルベロスを呼んできた人だ。
そして、窓の向こうに、ナジャ。
ナジャ。
「ィあアぁァあああァァあア!!」
叫んでいる。
誰?
誰が?
怖い。
怖い。
誰を?
怖くて、
嫌だ。
嫌だ。
理由のない恐怖が一番怖い。
僕は逃げ出したくなった。
でも、身体が動かない。
だから逃げれなくて、
凄く、泣きそうだ。
「望!」
美生が、
「落ち着 て、どうし の?」
女の人 声 聞こ 。
「そこに、そこの、」
「どこ?」
「窓の、」
「窓? 何 な わよ。雨 降っ るだ 。……怖い夢でもみたのね」
「でも、窓に、」
窓に? 何が? 何が見えたんだ?
何もないじゃないかでも緊張がとれない怖い怖い怖い怖いだってそこで を持ってナジャが誘って歌って僕を裏切る。
「もう大丈夫よ。もう、怖くなんかないからね」
子守歌を歌って子供を寝かしつけるように女の人が言った。
少しだけ、気が緩んだ。
僕はまた気を失った。
誰かに似ていた。
凄く綺麗で、
でも、
何て言うか、
ちょっと怖い。
薄く開いた目は時折グリーンに見えて、
その瞳は何も彼もを見ていて、
でも本当は何も見えていなくて、
それでもなんでも知っているし、
ぴし、ぴし、ぴし、
軋む。
「望?」
美生の声がした。
「お前さ、やっぱり、来なきゃよかったんだよ」
彰が冷たく言った。
「望君、ずっと調子悪そうだったし」
千洋が言うのが聞こえた。
「凄く顔色が悪いわ。かなり身体が弱ってるみたいだから、ちゃんとしっかりしたもの食べてよく寝ること。君、生まれつき丈夫なほうじゃないでしょ。ムリはしないほうがいいわ」
ショートカットで眼鏡をかけた女の人が保健室の先生みたいなことを言った。
「自己紹介がまだね。私は、月の山に夕方の海、って書いて、ツキヤマ・ユウミ。このサーカスでは、医療系全般と獣使いをやってるの。それと、バンドでのピアノ伴奏とか。よろしくね。そこで寝てるのは八萩タケル。MCと経理担当」
僕が寝ている間に彰達には自己紹介を済ましていたらしくて、千洋が夕海はその筋ではちょっと有名な学者の娘だったことを教えてくれた。さらに、タケルと千洋は中学校で同じクラスだったことも。2ヵ月だけだったらしいけど。千洋もここで会うまでそのことを完全に忘れていたらしい。
「どうしてそんな人がサーカスに?」
僕は訊いた。
言ってから、しまったと思った。
これじゃ、サーカスをバカにしてるみたいだ。
「……その顔は反省してるみたいだから差別発言は勘弁してあげるわよ。三年程前にね、私の父は事故で死んじゃったのよ。この街でね。多分知らないと思うけど。その頃はもう学会から社会的に抹殺された後だったし、新聞の地方版にちょっと載っただけだったしね自殺だったんじゃないか、って言う人もいたわ。そのころ私はアメリカで医科大学を出たばっかりで、日本に帰ってきたのはいいんだけど、出来ることもやりたいこともなくなっちゃって。そんな時にね、マダムから声が掛かったの。私は怪我人の手当てもできるし、なんだか獣にも好かれるみたいだしね」
「マダム?」
千洋が訊いた。
「このサーカスの主催者兼団長で、北欧出身の女性だ。詳しいことは誰も知らないし、実際に姿を見たことがあるのは……そうだな、占い師のシヴィルとタケルぐらいか? 俺も結構長いけど、よく知らない。マダムは謎の多い女だな」
ケルベロスが解説した。
どうして団長なのにそんなに露出が少ないんだろう。何年もこのサーカスにいるはずの夕海やケルベロスが知らないなんて、どう考えても異常だ。
でも、まあ、神秘的だし、いいか。
「俺は最初から芸人だったわけじゃなくて、ボクシングのスポンサーをやってもらってたんだけどな。トシだし、そればかりじゃ食えなくなったから、ピエロの仕事を始めたって訳だ。身体は柔軟だったからな」
ケルベロスが続けて言った。
ボクサーだったのか。
やっとのことで彰とケルベロスの繋がりが見付かった。
「ボクシングやってたんですか?」
千洋が訊いた。そう言えば、千洋は知らなかったのかもしれない。千洋が出会った頃には、彰はもうボクシングをやめた後だったから。
「ん? 彰から聞いてないのか?」
「千洋には話してない。関係のない話だからな」
彰が素っ気なく言った。
「関係ない、ってことはないだろう。赤の他人じゃないんだから」
「もう、やめたんだ。わざわざ言うようなことじゃない」
「どういうこと?」
千洋が言った。少し、怒っている。
「彰は中等部のとき、ボクシングやってたんだ」
僕はフォローしてみた。
「私がね、紹介したの。彰君その頃いろいろあったし、荒れてたから、気休めに、っていうか、気晴らし? に。何か打ち込めるものがあると人って変われるでしょ?」
美生が続けた。口ではそんなことを言っているのに、なんだか上の空で、気のない言い方だった。
別のことを考えてる。
「美生ちゃんが?」
千洋の声は、ちょっとだけ、震えているように聞こえた。
「別に隠してたわけじゃない。言わなかっただけだろ?」
彰が言った。
「なんで言ってくれなかったの?」
「いいだろ、別に?」
彰がなんで千洋に言わなかったのか、僕は知っている。美生も、当然知ってる。
彰は、中等部の頃の話をしたがらない。
PPPPPP
電話?
「あれ?」
千洋がバッグから携帯を取り出した。
「はい、あ、秀夫? 今、ちょっと。……やめてよ!」
千洋が携帯を切って、気の抜けたような顔で目をきょろきょろさせた。
僕と、目が合った。
「誰?」
僕は訊いてみた。
「うん、この携帯くれた従兄なんだけど、もう、こんな時に」
千洋が携帯電話をバッグに戻しながら言った。
「ねえ、そろそろこの辺で切り上げて、病人達を休ませてあげて? そうね、あなた達くらいの女の子だったら、占いとか好きでしょ? シヴィルに見てもらうといいわ。よく当たるのよ。本格派、エジプトのタロット占いなんだから」
夕海が上手く話を切り上げて、千洋の興味を逸らしてくれた。
「ちょっと待って、一つだけ……。夕海さんお父さんの名前、もしかして、赤人?」
どういうわけか、美生が訊いた。
さっきから考えてたのは、それか。
「知ってるの?」
「うん、名前だけ……。珍しい名前だし。それとね、千洋ちゃん。秀夫って、向坂秀夫君のこと?」
向坂? 確か、市長の名字もそんな感じだった気がするけど。偶然、かな?
「美生ちゃん、秀夫のこと知ってるの?」
千洋が意外、と言いたそうな声で言った。
「うん、前に、ちょっとだけ。いいの、それさえわかれば。占い師のトコに行こうよ」
美生が千洋を急かした。なんだか、この場から逃げ出したいみたいな感じだった。
自分からふっかけたくせに。
「美生さん? 一つだけ教えて。あなたがパパの名前を知った時、まだ、パパは生きてたの?」
夕海が美生に突っ込んだ。
「うん……私が会ったときはまだ――」
「会ったの? いつ?」
「3年前」
妙にはっきりと美生が言った。
そうか、そっち関係か。
「どんな研究だったかは……。知らないわよね」
夕海が残念そうに言った。
――はっせいがくのすごくぜんえいてきなけんきゅう
ナジャが言った。
「発生学の凄く前衛的な研究?」
僕は、あまり意識しないで口に出していた自然、疑問型になった。
「なんで望が知ってるの?」
美生が言った。
「知ってるのね? 教えて。どんな事でもいいから」
夕海が言った。懇願した、と言い換える事も可能な程、必死だった。
「僕は知らない」
僕は正直に言った。
「私、望に言った?」
美生が訊いた。
「全然」
「だよね……? 私もよく覚えてないんだけど、確か、胎児がどうのとか受精卵がどうとか、あとはニューロン? そんな感じだったと思う。ごめんね、私、その頃まだ中学生だったから、難しすぎて全然わかんなかったのよ」
美生が言った。口調とは裏腹に、態度はどこか冷めていた。
失敗した、という表情を浮かべていた。
「そう……、ありがとう」
夕海は諦めたように言って、美生と千洋を連れて出ていった。別の女の子が呼びにきてケルベロスも出ていった。
雨音が、大きくなった。
「千洋に、ちゃんと話しとけよ、高岡双葉のこと」
「わかってる」
彰はダークな声で答えた。
「話したくないんだろ? わかるよ、ちょっとだけ」
彰にとっては、いまだにこの話題は禁忌だと言う事も、実はまだちゃんと解決さえしていない事も、僕はちゃんと知っていた。
でも、いつかはちゃんと終わらせなきゃいけない。
彰も、僕も。
僕は、緑の事を思い出した。
まだ、美生にも話していない事。
雨が、少しだけ、弱くなった気がした。
風が強かった。
緑が何かを叫んで、
でも、
僕には届かずに、
風に千切れて消えてしまう。
錆びた を拾って、
でも、
風が強くて、
僕には緑の声が聞こえない。
どうして私を殺したの。
どうして私を殺したの。
こっちよ、
こっちよ、
夕闇を引き裂いていくリチウムの紅い光が怖い。
夕闇を引き裂いていくリチウムの紅い光が怖い。
でも、
風が強くて僕には緑の声が届かない。
「望」
しばらく黙っていた彰が声を出した。
「望、お前さ、」
言い掛けてうつむいた。
「なんだよ?」
「いい、やっぱり」
「気になるだろ?」
「……美生のこと、どう思う?」
なんとなく、言いたいことをはぐらかしたのは解った。
でも。
何もそんなこと訊かなくたって。
「本当は好きなんだろ? もう十年近くもずっと同じクラスだもんな。今更言いにくい、ってのもあるんだろうけどよ、意思は時々は口に出して伝えなきゃ永遠に伝わらないもんだぜ? お前にもいろいろあったのは知ってるよ。でもさ、解るだろ?」
「解ってるよ」
彰は、僕と美生の関係を使って自分自身を責めているのかもしれない。
いまだに双葉に縛られている自分を。
僕も、緑のことが吹っ切れていない。
性格も趣味も全然違う僕と彰が妙に合うのも、多分、そのせいだ。
「美生に三年前のことを思い出させるな。それがお前の役割なんだ、望。でないと、美生は、またお前から逃げていくぞ」
組んだ両手に額をつけて、祈りを捧げるようなポーズで彰が呟く。表情は髪で隠れて見えない。
「失っちまったら、もう、取り戻せなくなる物だってあるんだ」
不意に彰が立ち上がって、事務室を出ていった。
一瞬、以前の彰に戻ったみたいだった。
逸らされた話が重すぎて忘れ掛けていたけど、僕は、結局、本当は彰が何を言い掛けたのか訊きそびれてしまった。
一人になった。
タケルはソファで寝てるんだけど。
ぜえぜえ言ってるところからすると、タケルは喘息持ちらしい。
不意に、タケルが寝返りを打ってこっちを向いた。
その顔を見たとき、寒気がした。
僕と、同じ顔だった。
似てるなんてもんじゃない。
顔を見た瞬間、僕はこのタケルと言う生き物が、僕と服のサイズから爪の形まで一緒だと言う事が解った。
怖かった。
違うのは、髪形だけ。
そこにいたのは、違う生き方をしてきただけの、もう一人の僕だった。
「ユ……カ……リ」
タケルが呟いた。
そして、目を開いた。
「誰……」
顔をしかめながらタケルが言った。
よく、見えていないらしい。
「ん……、頼みがあるんだ……。デスクの上に……眼鏡がある……だから……」
僕はパソコンデスクの上に乗っていた眼鏡を取ってタケルに渡した。
「ありがとう」
眼鏡を掛けながらタケルが言った。
「ところで、君、誰?」
心臓が苦しい。
タケルは胸に手を当てている。
肩が大きく揺れる。
心臓が、苦しい。
僕は鏡のように同じ動作をして、
その質問に答えられない。
息ができなくて、
ふらふらする。
言葉が浮かばなくて、
「望、片山望」
雨の音だけ聞こえる。
窓の向こうにはきっと、
「じゃあ君が……」
心臓が苦しくて、
雨が降っているから、
「何?」
僕は、誰なんだろう。
「紫の言っていた、」
きっと、
「僕の、」
きっと、
ナジャがいる。
怖いくらいに澄んだ瞳が、僕を捕らえた。
「ねえ、こっちよ」
ブルーのワイシャツと母さんを残して、ナジャについていった。
どのくらい、歩いたんだろう。
とっても、足が、疲れてる。
「そっちじゃないよ」
ナジャは、疲れてないのかな。
歩き続ける。
長い、長い坂道。
「こっちよ、こっち」
3階建てのビルに辿り着いた。
「ここよ」
それは下にあって、
水槽の中に浮かぶ畸形児達。
六つの空の水槽。
夕闇を引き裂くリチウムの紅い光が怖くて、
母さんは僕を強く抱き締めて、
甘酸っぱい匂いがして、
彼女が母親にはならないことを知り、
静かな声で歌う歌はとても悲しくて、
僕は裏切られた様な気分になった。
悲しい歌が続いている間だけ、
とぎれると、
また、
僕が泣き出すから、
彼女はまた、
悲しい歌を歌い始める。
眩しい。
生臭い匂い。
オレンジ。
囁く声。
足音。
光。
光
眩しい。
血。
雨。
声が聞こえて、
双葉?
どうして私を殺したの。
血。
緑と、
双葉の、
血。
雨。
雨、
流れて、
光。
音。
嫌な音。
臭い臭い臭い臭い臭ェ!
雨が強くて、
違う、
風が、
風が強かったから、
僕には緑の声が聞こえなくて、
だから、
僕が双葉を殺した。