第十章 塔の脈動/月山総合生化学研究所
        The tower





 生まれた事が既に罪なのか。
 生きる事は全て贖罪なのか。
 存在が既に罪だと言うのか。
 ならば魂は誰が造ったのか。










 雨の煙る暗闇を切り裂いて美生のバイクが走り抜けていく。
 僕は秀夫の車の後部シートで、彰と千洋はバイクで、そのテールランプを追いかけるように長い長い坂道を上っていった。薄暗い街灯の下を通り抜けるときだけ、美生の姿が確認できた。それ以外はほとんど黒いライダースーツとバイクのボディが闇に飲まれて紅いテールランプしか確認できなかった。
 闇に揺れる紅い光が、僕に何かを思い出させようとしていた。

 ああ、そう言えば美生のバイクを後ろから追いかけたのは始めてだ。いつもは僕は美生のバイクの後にまたがって、その後を彰と千洋が追いかけるスタイルだった。
 十六歳で美生がバイクの免許を取ってから僕はちょくちょくその後に乗った。
 美生も僕と同じ母子家庭で、普段は悲しいまでにストイックだった。だから僕は美生がお金の掛かる教習所に通い出したときにはかなり驚いた。
 実際は美生は中等部の頃からバイクには無免で時々乗っていたし、そのバイクも『知り合い』にタダ同然で貰って隠してあるとは言っていたんだけど、初めて美生がバイクに乗って現れたときにはそのギャップにかなり動揺した。
 でも、後に乗ってみて納得した。
 美生はバイクのセンスがいい。
 余りにも違和感無く乗ってみせる。
 こういうのを才能って言うんだ、と、初めて知ったような気がした。
 多分、美生はバイクに乗っているときが一番気持ちがいいんだろう。
 でも、美生は運転中は寡黙になる。
 メットがフルフェイスだから喋れないってのもあるのかもしれないけど、自販やコンビニで休憩するときも全然喋らなくなる。
 だから、僕は、単車乗りの美生の考えてることは全然知らない。
 触れた所から、熱と、孤独が伝わってくるだけ。

 この坂道は長過ぎるから、色々なことを考えてしまう。

 美生のテールランプが右に流れて研究所の方へ逃げ、僕達はそれをぞろぞろと追いかけた。

 彰の背中にしがみつく千洋がウインドウ越しに見えた。
 大嫌い。
 勢いなんかじゃない。
 嘘で作れる言葉じゃない。
 血の通った言葉。
 たった五文字の言葉で、人はこんなにも傷付いてしまう。
 弱すぎて、悲しい。
 千洋は、どんな気持ちでこの言葉を口にしたんだろう。
 どんな気持ちでこの言葉を殺していたんだろう。
 僕には、解らない。
 解らないよ。


 研究所が見えた。
 動悸が、激しくなった。

 僕達は生まれた。
 より、高いもののために。
 より、遠くへ進むために。
 もっと、
 もっと、
 もっと。

 僕達は生まれた。
 僕達は生まれた。

 僕達は生まれた。
 そして、肺を広げて呼吸をし、心臓を動かして脈を打ち、今もまだ生きている。

 僕達は生まれた。
 理由もなく、意味もなく、偶然なのに必然で、それでも僕達は人間と言う現象にすぎない。

 僕達は生まれた。
 偶然の惑星で偶然の海が偶然の生命を生み出したとき、そこから様々な現象を通り抜けて今、人間であると言う偶然を生きている。人間であると言う現象を生きている。人間であると言う現実を生きている。
 嘘のような奇跡を重ね、複雑な化学反応を身体中に組み合わせて、無限に続く輪廻と循環の輪の中で、僕達はただ、この不自由な身体と不都合な心で生きている。

 僕達は生まれた。
 そこに意味があるのなら、

 僕達は生まれた。
 そこに理由があるのなら、

 僕達は生まれた。

 僕達は生まれた。

 美生のテールランプが消えて、研究所に到着した。


 秀夫がサイドを引いてエンジンを切ると、ウインドウを叩く雨の音以外、何も聞こえなくなった。
 ひどい頭痛がする。
 こめかみを這う血管の脈の音が聞こえそうだった。

 ビルの入り口では、彰達がドアの前で何かをやっていた。
「どうした」
 秀夫が訊いた。
「開かねえ」
 彰が分厚い自動ドアのガラスにケリを入れて諦めたように言った。
 そのビルはすっかり修復されて、多少の荒んだ感じはあっても、三年前のボロいビルには見えなかった。
「美生は?」
「先に行った。美生が入った直後から、ドアが凍結して動かない。畜生、時間稼ぎのつもりか」
「タケル君……」
 千洋が、呟いた。
 僕たちが自動ドアの向こうを見ると、ノートパソコンを持ったタケルと見たことがない女がエレベーターから出てきた所だった。
「遅かったね」
 どこかに繋いだキーボードをちょっといじっただけで簡単にドアを開けてみせたタケルが当たり前のように言った。

「身体、もういいの?」
 千洋が訊いた。
「うん。調子は、悪くないよ」
「よかった」
「誰? タケル」
 女が訊いた。
 聞いたことがある声だった。
「話したろ? 中学校のクラスメイト」
「ああ、あの娘?」
「そう」
「そう。……行きましょ」
 翠……エメラルドがタケルの首に抱き着くようにして言った。


 エレベーターも動かなかった。
 タケルがいくらキーボードを叩いても、無駄だった。
「駄目だ、外部から遮断されてる。予備電源もないし……。諦めよう。階段だ」
「予備電源、これじゃねえか?」
「ここには繋がらない」
「嘘だろ? ああ、駄目か」
「言ったでしょ」
 キーボードを叩きながらのタケルと秀夫の会話も、僕にはほとんど耳に入っていなかった。

 歌が聞こえる。

「セキュリティシステムは? マップぐらいあるんじゃないの?」
「侵入には時間が掛かるし、この広さだったら歩いたほうが早いよ」
「それでもハッカーか?」
「違うよ、僕はウィザードだ」
「あ、そう」

 上だ。

「待てよ、望。どこ行くんだ」
「単独行動は危険だよ。JUSTICE HEAVENに殺される」
「ザコが何人集まったところで同じだろ。……それに、望は殺されねえよ」
 彰が吐き捨てるように言った。

 歌っている。
 知っている。
 行かないと。
 はやく、
 はやく、
 お母さんが、

 階段を掛け上る。心臓が早くなる。こめかみの血管が脈打つ。息が上がる。
 ドアを開ける。
「待っていたわ」

「紫」
 タケルが言った。
「おひさしぶり、秀夫さん。私の船、『サルヴァトール・サルヴァンドス』の処女航海記念パーティー以来だから、三年ぶりね」
 白衣を着た紫はタケルを無視するように秀夫に言った。
「やあ、紫さん。……なぜ、ここに?」
「紫、」
「秀夫さんはなぜ?」
「……、ハハハ、紫さん、そこまで露骨に無視すると、かえって気があるのが露見してむしろ滑稽ですよ」
「そう? 本人は堪えているみたいよ?」
 その通りだった。
 タケルは今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「紫、お前が自分で言ったんじゃないか、三年後の今日、ここで会おう、」
「タケル? イヴには出会えたのね?」
 タケルを庇うようにして立っているエメラルドを見ながら、紫が冷ややかに言った。
「紫さん? 誰か、いるの……」
 聞いたことのある声がして、隣室に続くドアが開いた。確か、そこは、お母さんが入院していた部屋だ。
「望、君? どうして……」
 ドアから出てきたのは紫と同じように白衣を着た緑だった。
「緑」

「望君」
「なんで緑がこんな所に?」
「休みの間だけ、アルバイトしないか、って……。高校生でもできる簡単な仕事だし、どうせなら、医療系の仕事をやっておいたほうが将来のためだから……」
「だって、ここは」
「解ってる、でも、あれは、もう、過ぎたことだから」
「だけど」
「いいの」
「……」
「それより、なんで望君がここにいるの? お見舞い?」
 あの病室に、まだ誰か入院してるんだろうか。
 そうは考えられなかった。
「でも、そんな時間じゃないし」
「他に誰か来なかったか?」
 唐突に彰が訊いた。
「時々、女の子がお見舞いにくるけど……。友達、なんだって」
「そうじゃなくて、今日、ついさっき」
「だから、ついさっきも来たよ。黒い、バイクの服着た娘」
 美生だ。
「さっき? どのくらいだ?」
「何分か前まで、いた、けど」
「解った」

「傷は、もう、いいの?」
「……、跡が、残ってるけど」
「ゴメン、一生かかっても償うよ。……ダメだ、言葉じゃ、伝えられない」
「いいの、もう、後遺症もないし、傷だって手術すれば消えるし」
「でも、」
「もう、その話には触れないでおいて。お願い、望」
「……」
「そうだ、せっかくだから、彼女にも会ってあげてよ。きっと、たくさんの人に会えれば嬉しいと思うし、」
 彼女?
「どういう人が、いるの?」
「女の子、名前は、知らないの。13って、番号で呼ばれてる。そういう所なの、きっと。別に、感染したりとかはないから、大丈夫だよ」
「じゃあ、」
「いいのかよ、望?」
「だって、美生が誰に会いにきてたのか、知りたいだろ?」
「……時間が、無いんだ。手短に頼む」
 そして僕達はドアを開けた。


「嘘だろ……」
 彰が唸った。
「嘘ではないわ」
 紫が冷たく言った。
 身体中からチューブを延ばしながら、死んだように蒼白くそれでも綺麗な顔、あの日の傷を残したまま脈打っている身体、
 双葉。
 生きていた。
 嘘、だ。

「どうしたの?」
 緑が訊いた。
 緑。
 覚えていないのかもしれない。
「望君? 彼女が13よ。知ってるの?」
「緑、緑は、彼女を、見たこと、ある、」
「私が?」
「あるんだ」
「いつ?」
「あの時、ここで、多分それからずっと」
「……!」
「でも、そんなはずは、でも、嘘だ」
「あの時何があったの?」
「あの時、彼女が緑を助けたんだ」


そして僕は何かに取り憑かれたように双葉を犯した。


「この人が双葉さんね」
 千洋が言った。
 目がまだ正気じゃなかった。
「彰、まだ、好きなのね?」
「違う」
「嘘」
「違う」
「嘘」
「違う」
「嘘よ。だって彰は私を見ていない」
「違う」
「ちゃんと、好きだって、言ったのに」
「違う」
「嘘つき」
「違う」


「この広い病院に、双葉、一人だけか。寂しいな」
 秀夫が言った。知ってるらしい。
「ここは病院ではないわ」
 紫が言った。
「え?」
 訊き返したのは緑だった。
「ここは研究所よ。工場、と言ったほうがいいかもしれないわね」
「どういうこと?」
「私達はここで造られたの。みんな人形よ。私も、タケルも、双葉も望も」
 そう言えばどうして紫は僕達の名前を知ってるんだろう。
 一番最初にいなくなったのに。
「メサイアのなり損ない、半人前の救世主なのよ」
 そう言って紫は躁状態の母の声で甲高く笑った。
「いきましょう。望、知っているんでしょう? ナジャのいる場所を」

 知っていた。
 あの日、僕は、双葉と、
 旧い時計。
 文字盤の裏には銃が隠してある。
 血のように紅いカーペット。
 歌う母。
 暗い階段。
 いかないと。


 深紅のカーペットのある部屋は、もともとは応接室だったらしく、三年前の記憶や、十二年前の記憶よりも生まれた直後の記憶の姿そのままに復元されていた。
 旧く背の高い置き時計の姿もそのままだった。
 ただ、深紅のカーペットの中央部分が刃物で切り裂かれ、地下室への入り口が剥き出しになっていた。
 僕達はそこを降りた。
 紫が遅いのが気になった。

 階段を降りていくと、黒猫が僕の足元を横切った。
 それが幻覚なのはもう解っていた。
 突き当たりのドアを開けると、
 眩しい。
 暗がりに慣れ始めていた僕の目を光が突き刺した。
「来たな、ナジャの子供達」

 異様な光景だった。
 博士の研究室からあの頃の雑然とした感じがなくなり、かわりにもっとシステム化されていた。
 四方を囲む白い壁、天井で輝く白い蛍光灯硬いベッドに乗った白いシーツ、そして潔癖症の白衣。中身だけが違う。
 そして背後の黒いライダースーツと首筋の鈍い銀色のナイフも。
 違う。

 水槽の中では母親がゆっくりと脈打っていた。

「気持ち悪い……」
 千洋が呟いて、そのまま消毒済みの床に戻した。
「大丈夫か」
 抑揚のない声で彰が言った。
「彰君、早く」
 美生が口だけを動かして促した。
 彰が母親の下の扉を開けてレバーを下げると、悲鳴のような音がして銀色の弾丸に似た物がゆっくりと出てきた。
 悲鳴のような音はしばらく続いて、僕は気分が悪くなった。
「やめろ、やめてくれ、JUSTICE HEAVENに殺される!」
 白衣を着た修一さんが世界の終りのような声で叫んだ。
 美生が修一さんの耳元で何かを囁くと、修一さんは気の抜けたような顔になって黙り込んだ。

 悲鳴のような音はまだ聞こえていた。
 最後に一際大きな声で歌って、母親はゆっくりと脈動を終えた。

「まだだ」
 彰が言った。
「それを使うのか? 中の子供はまだ生きているんだぞ」
「黙っててくれ、気が散る」
 気が咎める、の間違いじゃないのか。
 そして誰もが沈黙した。
 紫の息遣いだけが聞こえた。

「何なの、ねえ、彰? ここは何? あれは何? どうして先生が美生ちゃんに?」
 沈黙を破るように、千洋がヒステリックに叫んだ。
 吐くだけ吐いて、やっと酔いが醒めたらしい。
 多分、ほとんど事情を知らないのは千洋だけだ。もしかするとエメラルドもかもしれない。二人は少なくともここには関係ない、はずだ。

 僕はこの場所を知っている。
 タケルも、紫も知っている。
 僕達はここで生まれた。
 美生や彰、それに秀夫は、別ルートで何かを知っている。
 修一さんは、多分、
 解らない。
 僕は白い影のことを思い出した。

「俺が説明してやるよ」
 秀夫が言った。
「この場所はもともと、月山赤人と言う産婦人科の専門医と、加納俊昭と言う精神鑑定医の二人が始めた診療所兼研究所だった。加納は実家の加納貿易を継ぐためにここを去る。しかし経営の一端を担うためにしょっちゅう顔を出してはいたらしい。さて、事実上一人になった月山博士は、かねてから研究を進めていたあるプロジェクトのために人材を物色し始めた。当然加納貿易が裏から手を回してのヘッドハンティングだった。その結果集まったのが、向坂礼治――俺と礼子の親父、神崎均――千洋、いや、仁実の父親、高岡一枝――高岡双葉の母親、片山園美――望君の母親、だね。それぞれ専門分野がまるで違う。親父は細胞、均叔父さんは機械、高岡一枝女史は脳、園美さんは薬学だった」
「月山博士は、凄い物を造ろうとしていたんだ。それは――」
「もういいわ、秀夫君」
 紫が言った。
「もういいのか、紫さん」
「もう少し話も聞きたいところだけど、残念ね、時間がないわ。早く、メルクリウスの弾丸を撃ち込まないと、――ナジャが、目醒めてしまう」

 器の中の子供はまだ、生きている。
 何も知らずに。
 違う。
 本当は全部知っていた。
 あれは、僕の、

「メルクリウスの弾丸?」
 エメラルドが訊いた。
「そう、水銀を主材料とした、システム・ナジャのメインヒューズ、そして同時にシステム・ナジャを殺すことができる唯一のアイテムよ。銃なら、ここにあるわ。はやく、」
 そして紫は激しく咳き込んだ。

「見ない方がいい。みんなは、先に上に行っててくれ。俺が始末をつける」
 彰が言った。
 思い詰めたような口調だった。
「なぜそこまでする? ナジャは、君にとって、」
「俺がいなければシステム・ナジャは起動しなかった」
「どういうことだ?」
「システム・ナジャの要であるメルクリウスの弾丸を造ったのは、――俺だ」
「でも、彰」
 計算が、おかしい。
 同い年の彰に僕達の母親を造れるはずがない。

 そして、死んだ母親の胎内でナジャが動き始めた。

 殺さないで

 殺さないで



「殺すな!」
 眩しい。
 光。
 彰の手の中で乾いた破裂音が響いて、母親の子宮ごとナジャは水銀に汚染された。

「ナジャは、僕の、子供なんだ……」




 僕が火を放った研究所には会わせて二十二の母胎があった。
 それはシステム・ナジャージダと、呼ばれていた。
 命名したのは加納俊昭だった。
 加納の父はソ連の人間だった。
 この研究のそもそもの発端も、彼の持っていたソ連の天才児研究の秘密報告書からだった。
 加納の父は天才児研究の失敗作で、前線の兵士として満州にいた。
 加納の母は満州に開拓をしにきて一山当てようとした男の妻だった。男の実家は貿易で大儲けをした一族で、男は次男だった。
 終戦直前、開拓村はソ連軍に襲われて、男達は殺され、女達は犯された。
 加納貿易の長男には男子がいなかった。
 加納の容姿は極めて日本人に近かった。
 だから、継いだ。
 財力を得た加納は、自分の存在のルーツを辿るうちに、以前の患者の一人、新妻小夜子に出会った。
 彼女は『自分は全ての記憶を持って生まれた女だ』、と告げた。
 加納は自分のルーツを知った。
 月山博士は興味を持った。

 人造子宮。
 それがシステム・ナジャージダ、そして僕達の母親の正体。
 僕達は、無遺伝子化された卵子に最高の女の遺伝子をダビングし、無遺伝子化された精子に最高の男の遺伝子をダビングして、それらを人工的に受精させ、造られた。
 通常は遺伝情報はそれぞれ半分ずつ切り捨てられる。
 僕達はそれをしなかった。
 受精卵は二つに分裂した。
 21と13、10と9、20と15。
 3と5、4と6。
 残りは上手く分裂できなかった。
 奇形児として死んだ。
 メサイアになれなかった。
 3と5、4と6は加納が失踪する前にメルクリウスの弾丸で殺していった。
 僕達は受精してからもいろいろな薬物処置を受けた。
 特に、ニューロンの成長を活性化させられた。
 体内ですでに言語は習得していた。
 そして、僕達は生まれた。

 僕達は誕生の記憶を、脳が形成される以前からの記憶を、全ての記憶を持っていた。
 記憶は成長と共に死んでいった。
 違う。
 どこかに封じ込められた。

 僕は火を放ち、17以外のシステム・ナジャは熱で死んだ。
 蒸し殺された。
 僕が殺した。
 17・星・希望と脆さのカードだけが生き残った。

 三年前、僕と双葉がここにきたときには、まだ希望のカードは空白だった。
 少なくともそのはずだった。
 双葉は僕を求めて、僕は双葉を犯した。
 そしてシステム・ナジャは再起動のきっかけを手に入れた。
 本来の目的、人造子宮として。
 そのときすでにそのビルには白い影が棲み着いて下準備を始めていた。
 システム・ナジャが脈打っていたことからしても、メルクリウスの弾丸も込められていたはずだった。
 全ては計画的だったのかもしれない。
 究極の遺伝子を持つ男女の組み合わせであれば、僕かタケルのどちらかを父に、紫か双葉か仁実か礼子の誰かを母に、どれでもよかったはずだった。
 美生や、彰や、秀夫や修一さんが動いて、僕と双葉の子供を、誰かが造ろうとしていたんだ。
 何のために。
 なぜ。
 なぜ、造った。


 システム・ナジャ、希望の星は脆く、崩れ始めていた。
 時々動く。


「畜生、もうそんなに成長していたのか」
 彰が唸るように呟いて、僕は寒気がした。気のせいばかりではなく、彰が本気でキレると周囲の熱を吸収してしまうらしい。だから体感気温が下がる。もちろんそんなことはない。多分、本当のところは彰がキレると僕は怖いんだろう。だから寒気がする。だから、脈が早くなる。血管を流れる血液の音が聞こえそうだった。
 そして目の前では同じように僕の子供が脈打っている。
 生きる、ために。
 水銀に汚染されたその身体で。
 半分崩れた身体で。
 気が付くと僕は美生からナイフを取り上げていた。


 はやく、
 はやく、
 はやく、
 死んで、
 生きるな、
 生きるな、
 だから、
 生まれたと思う前に、
 生きるな、
 もう、
 生きるな、
 そんなに必死で、
 生きなくていいよ。


 血に濡れた僕を見た千洋と緑と秀夫が吐いた。そういうのを視界の端に意識しながらも僕はナイフを降り下ろすのを止められなかった。僕は僕が造った命を心を持つ前に殺してあげたかった。千洋が暗い階段を駆け上っていった。彰が追いかけた。秀夫と、夕海も出ていった。階段へ向かおうとした修一さんをタケルとエメラルドが止めた。あなたにもこれを見る義務があるわとか何とかエメラルドが言ったような気がした。身体で心臓が悲鳴を上げるほど早く脈打っていてこめかみを這う血管を流れる血液の音でもう何も聞こえなかった。美生は氷のような目で僕を見ていた新生児の柔らかい皮膚を切り裂くのは非力な僕でも造作のないことだった。ナジャはもう跡形もなかった。子宮内膜が服にこびりつき出来立ての脳の破片が指に顔に身体に飛び散り切り裂いた心臓から激しく飛び出した暖かい血液が目に入っても僕はやめられなかった僕は僕が造った命を心を持つ前に殺してあげたかった。誰かが危ないと叫んだ。美生がナイフを持った僕の右手の歯車の時計をつけた手首をつかんだ。美生のライダースーツの太腿が裂けて銀色の刺青が見えた。美生が差し出したてのひらに乗った銀色の指輪を見て僕はやっと動きを止めた。こめかみの血管はまだ脈打っていた。

「もういいよ、望」
 美生が僕からナイフを取り上げ、左手の薬指に指輪をはめた。
 サイズが合っていなかったはずのエンゲージリングは今はもうぴったりだった。
 美生の手が僕の頬に触れた。
 そして僕はやっと泣いていることに気がついた。
 そして僕は美生に抱き締められて、大きな声を上げて泣いた。


「ちゃんと見た? これがあなたのしたことよ。私やあなたがどんなに傷や病を癒しても結局は誰も救われはしない。メサイアは二千年も前に死んだわ。そしてもう現れないの。二度と、世界が終わる日まで」
 エメラルドが言った。
「メサイアを、造らないか、と、言われたんだ、あの日、俺は、自分の母親の癌が末期だったことを知って、自分にはどうにもならないことを思い知らされて、だから、」
「だから? 入念に下準備をして、妹をたぶらかして望君を連れ出し、偶然のように双葉を望君に会わせて?」
 タケルが言った。
「事故にあった彼女を無理やり蘇生させたのや、取り出した受精卵を凍結させて保存していたのはなぜなの?」
 エメラルドが問い詰める。
「彼は人選ミスをしたのよ。修一は研究者ではなく医者だったのね。目の前の瀕死の患者を見捨てられない、例えその胎内にメサイアが宿っていようともいなくとも。すぐにだってメサイアの卵を取り出してしまえたのに、流産、っていうのかしら? の危険を冒してまで双葉を生かしておいたのも、その頃システム・ナジャの中にいた命を見捨てられなかったのも」
 なぜか紫が答えた。
「誰の子供だったのかは知らない。ただ、少なくとも半分はメサイアである確率がある、とだけ聞かされていた。だが、あの子が正常に誕生する確率はほとんどなかった」
「だったら尚更見捨てるべきだったんじゃないかな」
「できるか、そんなこと。……まだ、生きていたんだぞ」
「でも結局死んだわ。生まれたとしてもフリークスでしょう。結局は死んでしまうわ」
「……、そうだ、が」
「望君が選んだように、心を持つ前に命を消してしまったほうがよかったかもしれないのに」
「できない」
「そうね」
「中絶ができないからこそ、俺は産婦人科の医者にならなかったんだ」
「そうだね」
「もういいでしょう、タケル。ここは寒いし、まだ、問題は残っているわ」
「そうだね。……忘れたことは、なかったよできればこんな形でなく紫とは再会したかった」
「嘘つき」
「全部お見通し、か」
「はやく、行きましょう」
「……美生さん、望君は、大丈夫? 確か一階にはシャワーがあったから、そこで、落ち着くまで、一緒にいてあげて。僕達は先に残りの用事を済ませてくるから」
 タケルとエメラルド、それに修一さんと紫が階段に消えて、僕と美生は二人きりになった。


 しばらく泣いた。


 僕が殺した赤ん坊が、肉片の中から覗いた眼球が、僕を見ていた。
 まだ何も見ていなかった。
 もう何を見ることもない。
 そこにあったのは、
 眩しい。
 光。
 開かない瞼の裏で、
 赤い光の瞬きだけ見て、
 はやく、
 世界を見てみたかった、
 はやく、
 生まれたかった。
 そこに希望があると信じていた。

 僕は生まれた。
 そして、
 僕は裏切られたような気分になった。
 もっと幸福な水の中にいたかった。
 悲しかった。
 幾千幾億の奇跡を潜り抜け、
 僕は生まれた。
 なのに、
 悲しかった。
 生命の誕生を祝う歌でさえ、
 僕には虚しく響くだけだった。
 悲しかった。


 母の膝で聞いた悲しい歌を思い出した。
 それは、僕自身が希望だと歌っていた。



 それから僕はもう少しだけ泣いた。