ねえ、タケル。人は嘘をつくわ。
紫がかすれた声で囁いた。
わかってるよ、そんなこと。
わかってないわ。ちっとも。
紫はうつむいて泣き出した。
何故泣く?
知らないわよ、そんなこと。
泣きながら、紫はメンソールの煙草に火をつけた。
知らない、ってことはないだろう?
知らないものは、知らないのよ。
紫は薄紫の煙を吐き出した。
へーえ?
また、そうやってごまかすのね?嫌な奴。
煙の向こう側から、キツい目で紫が睨んだ。
その嫌な奴とくっついてんのは、誰だ?
意地悪。
紫は寂しい目を僕からそらした。
ちょっと分別のある視点で僕達の関係を見たら、ガキがイキがっているだけにしか見えず、非道く馬鹿馬鹿しく見えたのかもしれない。
あの日、僕も紫もまだ完璧なティーンで、厳密に言えばハイティーンでさえなかった。実際、大人びた物腰やつれない態度が成長の近道だと思っていたようなところがあった。 カクテルはウオッカにジュースとソーダをミックスしただけのお粗末な代物だったし、夜だっていつまでも起きているだけで大した事はしなかった。
何もしなかった、とは言わないけど。
それでも僕達は僕達なりに真剣だった。
私、あなたのことを知っているわ。
紫が言った。
そりゃ、外面的なことはね。
そういうことじゃないのよ……
紫は、哀しそうに目を伏せた。
例えば?
知っているのよ。ずうっと以前から。
目を伏せたまま、紫は煙草を揉み消した。
だから、何を?
あなたの本当の家族のこととか……
紫は静かに息を飲んだ。
とか?
あなたが生まれたところとか……
紫は沈黙した。
……
……
隣に目をやると、紫はカクテルグラスを持ったまま、寝息を立てていた。
静かな夜の闇の中に、紫の呼吸だけがゆっくりと響いていた。
僕は紫の手からカクテルグラスをそっと取り、テーブルの上に置いた。
ケルベロスは遠慮してトシキのトレーラーに泊まっていたから、事務所には僕と紫の二人しかいない。
僕は紫に毛布を掛けてから、音を立てないようにブラック・ラッシャンを作って一人で飲んでいた。
半分程飲んだ頃、紫が目を覚ました。
ごめんなさい。私、ずいぶんまいってたみたい……
紫は体を起こして、僕が掛けた毛布を脇に押しやった。
いいよ、そのまま寝てて。
そういうわけにはいかないわ。
紫はまた目を伏せて、メンソールの煙草に火をつけた。一筋の煙が上がった。
何か飲む?
スクリュー・ドライヴァー。
紫がブラッディー・メアリーの半分残ったグラスを僕に手渡した。
僕が赤い液体を捨ててウオッカとオレンジ・ジュースとソーダを軽くステアしたものにアイスキューブを入れて持ってくると、また紫は眠っていた。
ぼくは紫を横にして、毛布を掛け直した。
今度は起きなかった。
自分のグラスに残っていたものを飲み干して、事務所の明りを消した。
僕がソファに横になって眠ろうとしたら、紫が隣に滑り込んできた。
僕は暗がりの中で紫の顔を見た。
長くて綺麗なまつげに縁取られた、いつも伏し目がちな目。その下にある、形のいい鼻と、ルージュをつけていなくても充分に赤い唇が白い肌に映えている。
僕は紫の肩に手を回して、目を閉じた。
甘い、柑橘系の匂いがした。
明日、出発ね。
目を覚ますなり、紫が呟いた。
ああ。
お別れ……ね。
紫はケルベロスのソファに移って言った。
ああ。
寂しくなるわ。
すっかり氷の溶けたオレンジ色のカクテルを、ちょっとだけ口に含んで、紫が言った。 仕方ないさ。
冷たいのね。
紫がグラスを頬にあてて言った。
そうかもな。
私がここにきて、半月も過ぎたのね。
紫がどこかを見つめながら言った。
もうそんなに経ったのか。
短かった?
グラスをテーブルに置いて、紫が訊いた。
どうかな。
……
МЕНЯ СЧИТАЛИ В ЯПОНИИ ИНОСТРАНКОЙ,
И СЧИТАЛИ МЕНЯ В РОССИИ ИНОСТРАНКОЙ,
СЛИЯИЕ ДВУХ КРОВЕЙ СОЗДАЕТ НОВОЕ,
ГДЕ ТО БЫ НИБЫЛА, ВЕЗДЕ Я ЧУЖАЯ,
МНЕ ВЕРНУТЬСЯ НЕКУДА ТАК КАК Я ЧУЖАЯ!
紫が、歌うように、詩のようなものを囁いた。
僕は、それがロシア語だと言うのに気が付くのにしばらくかかった。
よく考えてみたらそれは、僕の好きなアーティストの唄の一部分だった。
どうして紫が知っていたのだろう。
二つの母国の間で揺れる、切ない歌だ。
私は日本では外人といわれ
私はソ連では外人といわれて
2つの血の流れが
新しいものをつくり出し
どこまで行っても宙ぶらりん
帰る場所のない異邦人
"PART-TIME LOVERS"
紫は僕達の関係をそう呼んだ。
一時の恋人。
彼女はどんな想いでそう言っていたのだろうか。
彼女なりの精一杯のアイロニーだったのかもしれない。
必ず別れがやって来る、時間制限付きの恋人。
私、あなたのことを知っているわ。
紫がもう一度囁いた。
昨日も同じこと言ってたよ。
そうね、言ったわ。
紫は小さく溜め息をついて、目を閉じた。
で、何なんだ? 教えてくれよ。
弟がいるわ。同じ顔……双子ね。
紫が目を閉じたまま呟いた。
どこに?
……もう一人、とても近い……でも……
紫は寝言のようにはっきりしない声で、答になっていないことを答えた。
何なんだよ、それ?
ナジャ……
紫はそれだけいうと疲れたように、また眠ってしまった。
……
ナジャージダの……
希望の?
次に紫が目を覚ましたのは、サーカスの最終公演日の午後の部が始まった頃だった。
僕は自分のソファで短い睡眠を取り、目を覚まして昨日の名残のカクテルグラスを片付けてから、朝食兼昼食のカフェオレとフレンチトーストを用意していた。
紫が、いい匂い、と言って起き上がった。
僕が、紫も食うか、と訊くと、半分だけ、と答えた。
紫は全然動かないでほとんど眠っている代わりに、まったくと言っていい程ものを食べない。口にするのはいつもウオッカベースのカクテルかピスタチオぐらいで、まともなものはほとんど食べない。それなりにカロリーはあっても、栄養はほとんどない。しかも、それさえ大概は半分も手を付けない。
だから非道く痩せていて、脇腹を指でなぞると、骨格が怖いくらいにはっきりとわかった。
こんなんで、よくここまで生きてこれた、と僕はよく思った。
さっきの続き、話さないとね。聞きたい?
フレンチトーストに、不器用なナイフを入れながら、紫が呟いた。
話してくれるんなら、聞いてもいいよ。
私にもよく分からないのよ、これ以上のことは……。
紫は小さな声で言った。
いいよ、だったら。
ごめんね、名前もわからないなんて……言わない方が良かった?
フォークでトーストの切れっ端を口に運びながら、紫が訊いた。
ナジャージダ……
私、そんなこと言ってた?
紫が手を止めて僕の方を向いた。
言ったよ。寝てたみたいだったけど、ナジャージダって。
そう……。記憶がないわ。
困ったようにナイフを持った手を振って、紫が言った。
気にしなくていいよ。
いつもそればっかりね。
紫は改めてトーストに取り掛かりながら呟いた。
仕方ないさ。誰もが誰かをゆるさなけりゃこんな時代は生きていけない。
でも、そればっかりでも生きていけないわ。
紫は哀しそうに囁いた。
そうだね、でも、これが僕の性だからね。やっぱり、仕方ないとしか言えないよ。
そうね、それがあなただもの。わかるわ。
紫は当たり前のように言った。
そんなものかな。
あなたのことなら、わかるわ。
紫がそっと呟いた。
わかり合っていない人達だって、世界には沢山いるよ。
私だってタケル以外の人のことなんてわからないわよ。
紫の瞳が一瞬、緑色に光った……気がした。
僕には誰のこともわからない。
そうね。あなたは頭はいいけど、それだけだもの。
僕は紫の瞳を見た。……今度は、光っていなかった。
ずいぶんだな。
お互いさまよ。
紫は冷めた口調で言った。
……
いいのよ。私の瞳がグリーンなのは本当だもの。
紫は切なく言った。
……
気付いてなかったのね?やっぱり冷たいわ。
紫は怒ってはいなかった。……ただ、哀しそうだった。
悪かった。
祖父が、ソビエト時代の軍人だったの。
紫は静かに語り始めた。
祖母が満州で、ソ連との国境近くにいたとき、祖父にレイプされて父を身籠もったの
愛新覚羅溥儀の時代よ。夫には殴られたし、家族からは勘当されて一人になった。でも、子供を堕ろそうとはしなかった。夫は男性不妊症だったし、年齢からしても、彼女が子供を手に入れるチャンスはこれを逃したら二度と無いかもしれない、ということもあったのね。祖母は世界大戦終了のどさくさに紛れて父の日本国籍を手に入れ、K坂市にやってきた。父が成長してK坂港で貿易関係の事業を始めて、軌道に乗って成功したように見え始めた頃、祖母はこの世を去った。事業が完全に成功した父はロシア語を勉強し始めた。一回り以上も年下の、ロシア語の通訳をやっていた女性が父の教師で、二人は後に結婚し、この街に移り、住み始めた。父は外見だけならほとんど外国人で、くすんだグリーンの瞳とグレーの髪を持っていて、なぜか私にも少しだけ遺伝した。劣性遺伝なハズなのにね。
これでおしまいよ。
2週間も一緒にいて、今頃紫の瞳の色に気が付くなんて、どうかしてる。ずっと、暗いところにばかりいたせいかもしれない。でも……。
そして、紫がこんなに長く一人で話したのも、自分のことについて名前と年齢以外のことを話したのも、初めてだった。
ねえ、タケル。
紫が囁いた。
何?
ねえ、
何かがズレ始めているのを感じた。
何も言わなくていいよ……
……。
紫の目に、小さな涙が一雫、現れた。
大丈夫だよ。
何が大丈夫なの?
紫の肩が震えていた。
何もかもだよ。
何もかも、大丈夫なものなんてないわ。
初めはすすり泣き程度だった紫は、だんだん激しく泣き出した。慟哭、と言ってもいいと思う。
おい、
ねえタケル、人は嘘をつくわ。
紫は震える声で言った。
そうだよ、嘘つきじゃない奴なんて、どこにもいない。
違うの、違うの……
紫は激しく左右に首を振って否定した。
もう泣くなよ。
違うの……
紫はまた眠ってしまった。
紫はすぐにでも壊れてしまいそうな程、アンバランスな情緒を持っていた。
僕は紫について本当に何も知らない。
名前と、年齢と、自分じゃメイク出来ない癖にマニキュアを塗って結局僕がやり直さなくてはいけないことと、ほとんどものを食べないことぐらいしか知らない。
ヴィジュアル的なことは知っている。
そういう問題でもない、か。
なんだか頭が痛い。いつもの偏頭痛だ。
カクテルでなだめてみてもあまり効果がなかったので、毛布にくるまって眠ってしまうことにした。
タケル、ねえタケル、起きてよ……
紫が僕を揺さぶるので、目が覚めた。
何?
手伝って。
そう言って、紫は僕を洗面所に連れて行った。
また、メイクか?
やっぱり、上手く出来ないの。
紫は震える手で口紅を差し出した。
……
お願い。
僕は口紅を受け取ると、紫の唇に赤くルージュをひいた。紫に言われるままマニキュアを塗り、ペディキュアを塗り、髪をブラシで整え、服をきちんと着せて、白いサンダルを履かせた。
出来たよ。
寒い……。手が震えて、何もできないよ……
紫は、肩を抱いて小刻みに震えていた。僕は、紫を、抱き締めた。せっかく整えた髪や服が乱れても構わなかった。
紫……
タケル、苦しいよ……
紫は切ない吐息をもらした。
もう少し、このままでいて……
……
別れの日がやってきた。
僕は自分の荷物をまとめ、コンピューターをトシキのトレーラーに移し、大テントを片付けてしまうと、なんだかやり切れない想いが残ってしまったのに気が付いた。
今まで、数え切れないくらい何度も経験したはずのこの作業を、ブルーなものにしているのは、やっぱり紫だった。
認めたくなかったけど、さっぱりと割り切れるほど僕は大人じゃなかった。
雨が降っていた。
優しい、静かな、霧のような雨。
ほとんど何もなくなった広場に、紫だけが片付け忘れた人形みたいに立っていた。
お別れね。
紫が小さな声で言った。
忘れないよ……
無理よ、きっと忘れるわ。
紫が、雨に消えそうな声で呟いた。
無理なんかじゃないよ。
やめて。
紫が自分の荷物を持って、歩き始めた。
……
さようなら。大好きだった。
僕は何か言葉を返そうとした。
でも、僕が紫に見せることが出来たのは、涙をこらえているせいで気弱に歪んだ微笑だけだった。
多分、紫が過去形で僕達のことを話したのが、思っていたよりも辛かったんだと思う。
しばらくは、紫がいない生活に慣れることができなくて、寝起きは最悪だったし、偏頭痛は一日中単調なドラム・ソロのライヴ・ショーをやっていた。時々、調子外れなアルトサックスが加わることもあった。
いつの間にかカクテルはミネラルウォーターとアスピリンに変わってしまい、大人っぽい言葉遣いもやめて、紫のこともぼんやりとしか思い出せなくなっていた。
偏頭痛も少しずつ楽になってきて、今では寝る前に一錠アスピリンのタブレットを飲むだけでいい程にまで回復した。
それでも、雨が降ったりすると、少しだけ弱い。ちょっと涙腺が緩くなる。
Tender Rain let's dance with me.
I'm thinkin' of you.
Miss you much.
……。