汝の掌に無限を握れ ひとつぶの砂に世界を観る 一輪の野花に天界を眺める 汝の掌に無限を握れ そして一刻のなかに久遠を W・ブレイク『童心占徴』 私が通っていた図書館の入口には、古く背の高い置き時計が有った。捩子を 巻くのを怠ると止まってしまう、かなりの年代物だ。振り子の見える硝子の扉 の中は、大人の男でも屈めばすっぽり収まってしまいそうな程広い。図書館の 建物自体が相当に時代掛った物だったが、その時計は一層古く、不調和な雰囲 気でその存在を奇妙に誇示していた。 図書館は何時でも怖い位に静かだった。微かに響く空調の唸り声、本を探し に立ち上がる時の椅子を引く音、静かな足音、本を棚から抜き出す時の背表紙 が掠れる音、鉛筆を走らせる音、低く囁き合う声。そういった全ての音が、ま るで書架に吸い込まれるかの様にひっそりと息を殺していた。時折、思い出し た様に大時計が時を告げる。そして暫くは誰もが時を刻む針の音を意識してい るのだが、その内に自分の手持ちの仕事に集中し始めて忘れてしまう。 新妻小夜子が同級生の加納俊昭に殺されてから数年が経つ。 加納は祖父がソ連人の混血で、左の眼だけが緑色だった。普段は例の古時計 の有る図書館で日本の古典や漢籍を読み耽っている、物静かな男だった。 加納の部屋で私と小夜子、そして加納の三人で雑魚寝していた時の事だ。小 夜子が加納を誘い出して悪戯を仕掛け、本気で厭がった加納と揉み合っている 内に階段から落ちたのだ。 加納は結局何の沙汰も無く放免されたが、暫くして行方不明になり、それと 時期を同じくして湾に身元不明の水死体が揚った。水死体の容貌は加納に酷似 していた。 悪い冗談だ。 私は恋人と親友の二人を恐ろしく短い期間に両方とも喪ってしまったのだ。 暫くは何処へ行くのも何をするのも厭で、唯々酒に溺れていた。嘗ては毎日 の様に通っていた図書館にも、自然、足が遠去いた。 小夜子は図書館が嫌いだった。 否、あの大時計が嫌いだった。 小夜子は旧華族の出で、何代か前は爵位も与えられた程の上流家庭だった。 新妻男爵邸は明治時代に造られた瀟洒な洋館だった。新妻男爵は骨董に深い関 心を寄せ、館にはその筋の蒐集者なら垂涎物の品が掃いて捨てる程有った。図 書館の物に良く似た大きな時計もその一つだった。以前は大好きだったその時 計に関して、小夜子は何か酷く怖い目に遭ったらしい。小夜子は決して何が怖 かったのかは語らなかったが、骨董品の時計を見る度に悪寒が走る、と口走っ ていた。 それでも血は争えないのか、小夜子も相当な骨董品の蒐集者であった。西洋 の磁器人形で瞳が翠玉の物や、何とかと言う画家の贋作等がお気に入りだった が、その他にも小夜子の部屋には至る所にその類が転がっていた。 だから、小夜子は悪寒に耐え悪態を付きながらも骨董屋巡りを決して辞めよ うとはしなかった。 加納には学生結婚で生まれた娘が一人いる。名前を紫と言う。加納の妻と言 う人に私は会った事が無かったが、大層綺麗な人だったらしい。病弱で、娘を 生んだ時に命を喪ったと言う話だ。 母親を早くに亡くし、父も消えた紫を、私は引き取る事にした。 加納の両親は随分と年齢を経てから一粒種の加納をなした。加納の父は貿易 商で、膨大な財産を残していた。加納が学生の時に年老いた両親は相次いで亡 くなっていたので、成人すると同時にその遺産は全て加納が相続していた。余 程の事に手を出さない限り使い切れる額では無かったが、加納は親の残した豊 富な資産には殆ど手を付けていなかった様だった。 紫を引き取っては見たものの、独身者の私には幼稚園児など育て上げられる 筈が無く、加納の遺産の中から幾らかを使って専門家に任せ切りにしていた。 しかし、次々に現れる親族との絡みに良い加減嫌気が差し始めていたのと、加 納が失踪扱いになっていてそう易々と籍をいじる訳にもいかなかったのとで、 実際は紫は私の養女ですらなく、紫にとって私は唯の親切な他人に過ぎなかっ た。 小夜子は何時も黒い服を着ていた。 私が喪服の様だから止せと幾ら言ってみた所で、小夜子は闇に溶け入ってし まいそうな服装ばかりを好んだ。 本当は私も、小夜子には黒が似合うと思っていた。否、死と夜を象徴するか の様なその色が小夜子以上に似合う女に私は未だ嘗て出会った事が無い。 そして、黒と言う色は小夜子の職業にも良く馴染んだ。 小夜子は街に小さな事務所を営む占い師だった。西洋の占い札と少々の占星 術を操り、実に器用に様々な事柄を言い当てた。占いの定石である恋愛や健康 仕事運等に始まり、待人、旅行、果ては明日の天候までも一度といえ外す事は 無かった。 本当はこんな物要らないのよ、と小夜子は占い札を見ながら良く呟いていた 私は知っているの。何も彼も見たわ。惑星が膨れ上がって生まれ変わる瞬間。 油だらけの海で水浴びをする水鳥。風向きが変わって焼け爛れる山。喜々とし て妊婦の腹を割く兵士。崩れ落ちた岩が削れて砂になる経緯。 私、あなたの事を知っているわ。 紫は日に日に小夜子に似始めている。 緩やかな顔の弦、鷹揚な態度、静か過ぎる動作。紫の風貌は最早幼女のそれ では無く、大人の女のそれであった。何時も何処か遠くを眺め、誰が教えたの か異国の歌を口ずさんでいる。そして、幼い体躯を漆黒の衣に包んでいる。 紫は父譲りの緑の左眼をしていた。 加納の話を信じるならば、紫に混じったソ連人の血は三代前に遡らなくては いけない筈なのに、悲しくなる程昔の僅か一滴の血が紫にも正確に名残ってい る。 小父様、私、本を読む所に行きたいわ。或日、紫が言った。本なら沢山有る だろう? 私が返した。実際、加納の唯一の道楽は絵本、民話から豪華版の専 門書に至る迄の本の蒐集だったので、紫の住む家は偏執的な迄に本で埋め尽く されていた。加納は本なら何でも良かったらしく、子供向けの物だけでも結構 な量が有ったが、紫がそれらに触れた形跡は全く無かった。違うの、紫は言っ た。私は本が読みたいのではなくて、本を読む所に行きたいの。私の為では無 く、小父様の為に。紫は片方ずつ色の違う瞳で真っ直ぐに私を見据えて言った 僕の為? 私は再び返した。二回りも年下の紫を私は同格に扱わざるを得なか った。紫と対していると、どうしても小夜子と話している様な気分になってし まう。 そうよ。小父様は猫と死神に逢わなければいけないの。 私、あなたの事を知っているわ。 小夜子は初めて逢った時に私にそう言った。私は何処かで対面していたもの と思い込み、その旨を告げて思い出せない、と謝った。いいえ、違うわ。あな たと逢うのはこれが初めてよ。そして小夜子は甲高い声で笑った。唯知ってい るだけ。それ以上でも以下でも無いの。私はあなたが産着にくるまって泣いて いる所も見たし、あなたが惜しまれながら最後の呼吸をするのも見たわ。そう 言って小夜子は静かに眼を伏せた。私とあなたが出逢い、別れ、そしてもう一 度出逢う事を私は知っている。私が私としてあなたと接するのはとても短い事 になるわ。でも良いの。私は姿を変えて何度でもあなたと出逢うのだから。私 とあなたは、悲しい程に擦れ違う。でも決して別れられないの。束の間の呼吸 を置いて、絶える事無く、何時までも。 私は全てを断定型で語る喪服の占い師に興味を持ち、小夜子との付き合いが 始まった。 私は紫に半ば無理矢理連れ出されて図書館へと向かった。此の街には幾つか 図書館が有った。私は例の大時計の有る図書館に行く気にはなれなかったので 取り敢えず最も近い市立図書館へ足を運んだ。 駐車場に車を入れようとすると、ここではないわ、と紫が言った。知ってい るんでしょう、此処では駄目。あの古い時計の有る図書館に行って頂戴。 もう良いだろう、教えてくれないか。猫と死神とは何なんだ? 私は紫の方 を向いて訊いた。紫は小さく首を降った。私では駄目なの。小父様が、自分で 知らなければ。私はそれ以上の追及を止めにした。小夜子の予言は何時も正し かったのだ。紫も又然り、二人には何処か通じる所がある。恐らく、紫は二人 目の小夜子なのだ。何度でも出逢い、そして同じ数だけ別れる運命。 私が再び紫を見た時、紫は小夜子の磁器人形を抱き締めて可愛い寝息を立て ていた。 或日、小夜子は非常に稀であると言う国産の天然物の金緑石を手に入れた。 私、これを象眼して特製の人形を作らせようと思うの。私は人形の眼に嵌める にしてはその宝石は若干小さ過ぎる様に感じたが、敢えてそれを口にはしなか った。 幾らかの時が過ぎて、小夜子の人形は完成した。それはとても小さな男の子 の人形で、左眼には金緑石、右眼には黒曜石を埋め込んであった。 右眼が黒で左が緑か。まるで加納だな。そうね、小夜子は短く答えただけだ った。それから部屋の照明を暗くして、普段は仕事の時にしか使わない蝋燭に 火を点した。 見て。加納君じゃないわ。 人形の左眼は美しい朱に染まっていた。 私は返事もせずに、その人形に魅入っていた。 魅入られたのかもしれない。 片方だけ朱の眼をしたその人形は、それでも加納に良く似ていた。 久し振りに訪れた大時計のある図書館、坂ノ下図書館は、臨時閉館中だった 駄目だな、帰ろう。私は幾分安堵を覚えながら言った。大丈夫よ、鍵ならあ るから。紫は人形の髪を外してつるりとした頭を剥き出しにした。良く見ると そこは引き出しの様になっていて、中からは随分と古い鍵が現れた。 誰も居ない図書館は、何時にも増して静かだった。 私は紫に導かれるままに図書館に侵入した。不思議な感慨で思考が完全に麻 痺していた。紫は小夜子が大嫌いだったあの時計の前で立ち止まり、小夜子と 同じ様に体を震わせた。お願い、小父様がやって。私は紫の指示に従って大時 計の扉を開き、振り子や色々な物を取り外した。振り子の向こう側には鍵穴が あり、紫が魔法の様に取出した鍵をその中に挿入した。私の記憶通りなら、こ の向こう側は物置になっている筈だった。しかし扉を押し開けると、暗い階段 が現れた。 早く行きましょう、小父様。紫が急かして、私はその暗闇に足を踏み入れた 時計の奥は真っ暗闇だった。私は慎重に少しずつ移動していたのだが、紫は まるで何でも無いかの様に軽々と下って行った。 危ないよ、私は声を掛けた。大丈夫よ、紫が返した。だって足元が全然見え ないじゃないか。そうね、紫は面倒そうに呟いて、小父様、何か火を持ってら っしゃる? と訊いた。私は鞄から燐寸を取り出した。何処で見付けたのか、 紫が洋燈に器用に火を灯した。小父様が持って下さらない? 紫が私の方に洋 燈を差し出した。私はそれを受け取って、顔の辺まで掲げた。階段は何処迄も 下へ続き、このまま地獄へと進んで行くかに思われた。私は戦慄した。幾らこ の街の開発が遅れているとは言っても、上下水道位は有るのだ。水道管にも引 っ掛からずにこの様な地下道が掘れる筈が無い。ましてや此処は色々な建物が 林立している区域なのだ。 そんな馬鹿な事が有る筈が無い。 待って、待って、皆。 紫が一人、足速に階段を降りて行った。 私は恐怖を堪えながら、紫を追い掛けた。明りも無しにこんな所を走ったり したら、転ばない筈が無い。ましてや紫はまだ子供なのだ。私は今迄とは別種 の恐怖が襲い来るのを感じた。 紫、紫、紫。私は叫びながら階段を下った。 ……。 何か、物音が聞こえた。 違う、極端に視覚情報の少ない世界に居る所為で、神経が過敏になっている だけだ。 小刻みな足音が聞こえ、階下から弱く獣の臭いが伝わって来た。 気の所為などでは無い。何か、何かがそこにいる。不思議と怖くはない。 闇の中、緑色の瞳が輝いた。 黒猫だ。 黒猫は甘える様に私の足元に絡み付き、拗ねた様な声で鳴いた。 私が黒猫を抱き上げると、黒猫は私の腕の中で丸くなって瞳を閉じた。 待って……。 紫の声が聞こえた。案外近くなのかもしれない。私は腕の中の黒猫を起こさ ぬ様にそっと階段を駆け出した。 待って、待ってよ……。 距離感覚は勿論、上下感覚や平衡感覚迄もが怪しく儚く頼りにならない此の 空間の中で、誰かを求める紫の声と私の足音だけが空しく暗く狭い通路を響い た。 紫は誰を追い掛けているのだろう。 私はとても気になった。 私、あなたの事を知っているわ。 黒猫が言った。黒猫はそれだけ言うと私の腕からするりとしなやかな体を捩 らせて飛び下りた。こっちよ。あなたの欲しがっていた物があるわ。 黒猫が駆け出した。 私は夢中で猫の後を追った。 私、あなたの事を知っているわ。 私、あなたの事を知っているわ。 何かに額をぶつけて私は立ち止まった。落ちた拍子に洋燈が割れ、火花が弾 けて私は明りを完全に失った。 行き止まり、だ。後を振り返ってみたが何も見える筈が無い。 紫とも猫とも擦れ違わなかった。第一此処は二人が並んで通れる程の余裕は 無いのだ。 私は座り込んでしまった。為す術が無かった。紫を捨て置いて一人で戻る訳 にはいかないし、第一足場が不安定で一人で戻るのも厭だった。 地方とは言え比較的都市部で生まれ育った私は、こういう真の闇を経験した 事が無い。ましてや私は繁華街で育ったのだ。そんな私にとって夜とは昼より も明るい位の世界で、きらびやかな電飾と賑かな音楽無しで成立する物では無 かった。成人してからも私は安いからと言う表向きの理由で場末の下宿に住ん でいた位なのだ。 酷く不安だった。暗闇が、私を、襲う。 どの位経ったのだろうか。 私は年甲斐も無く膝に顔を埋めて泣いたらしい。 幾ら眼が慣れようとも光源の全く無い此の場所では何も見えない。 次の瞬間、眩く白い輝きの中に私はいた。 全く、難儀な奴だ。子供じゃあるまいし、暗いのがそんなに怖かったのか。 ほら、もう泣くな。一人で立てるだろう? 私の視界に、左眼だけが朱い男が居た。 加納、か? 早く入れ。俺だって旧知の友を見捨てる訳にはいかないんだ。 ほら、起きろ。 加納なんだな? ああ、この左眼の所為か。蝋燭や洋燈の光の中でだけ色が変わる。面白いだ ろう? 金緑石。私は小夜子の、今は紫の物である人形を思い出した。 やっと逢えた。 そうだ、俺が死神だ。 眩しい。 加納の部屋は薄暗い洋燈が一つ灯っているだけだったが、光の全く無い場所 から急に光源のある所に移された所為で私は暫く眼を開く事が出来なかった。 こんな物しか無いが、勘弁してくれ。死神が木の机の上に硝子の洋杯を置く 音が聞えた。 漸く眼が慣れて来て、私は目の前の洋杯に注がれた葡萄酒を手に取った。 もう直ぐ黒猫も来る。三人で乾杯しよう。死神が言った。 何時からだ? 私は訊いた。何の事だ? 死神が返した。何時からこんな所 に居る? ああ、その事か。そんな事は大した問題じゃ無い。俺が此処に居て お前が此処に居る。それで良いじゃないか。お前がそう言うならそれで良いん だろう。私は心の中だけで呟いた。 部屋の中には影が一つしかない。そう、それは大した問題では無いのだ。 軋んだ音を立て、扉が開いた。 待たせたわね。 揃った所で、乾杯と行こうじゃないか。死神が言った。三つの洋杯が澄んだ 音を立て触れた。ねえ、もっとあなたの声を聞かせて。黒猫が言った。それで は、人形の話をしよう。私は葡萄酒を一息に飲み干すと言った。鋭く尖った神 経に良く冷えた酒精は良く効いた。 人形? 死神が訊いた。ああ、金緑石の左眼の人形の話だ。面白そうね。黒猫が紅を 差したように紅い唇で囁いた。そうだな。死神はそう言って私の洋杯に葡萄酒 を注ぎ入れた。酒精を含んだ赤黒く澄んだ液体の作る波が、幾層もの光輪を描 き出した。暗闇の中でしか見えない光、枯れた花にしか現せない美。矛盾の中 にしか見出だせない真実、腐った世界でしか感じない新鮮。歪んだ正三角形、 淫らな清楚。騒がしい静寂、狂った時計。逆説も又真なり。楽しい酒盛になり そうだな。死神がいつもの冷笑的な微笑を見せた。 その人形の名は、加納俊昭と言う。 その人形の名は、加納俊昭と言う。 私は抑揚を潰した声で語り始めた。 その人形の左眼に嵌められた金緑石は大変稀な品で、その上産出量の非常に 少ない本邦産の物だった。私の知っている或る占い師が偶然それを手に入れ、 人形を作る事になった。私は当然右眼にも同系色の翠玉か何かを入れる物だと 思っていた。しかし予想は外れた。人形の右眼は黒曜石だったのだ。それは私 の友人の加納と言う男に怖い迄に良く似ていた。彼女は私がそう主張するとそ の人形を加納の名で呼び始めた。ほんの戯れだったのだろう。けれども占い師 も加納も死んでしまってから、私はその意味に気が付いた。冗談や気紛れ等で は無かったのだ。彼女は初めから、彼女自身の全てをその人形に託していたの だ。その人形は今、彼女と加納の唯一人の娘の手に有る。そしてそれは相も変 らず彼女自身の手の内に有るのだ。 これで人形の話は終いだ。今度は君達の話が聞きたい。 それでは、私が話をするわ。全ての記憶を持って生まれた女の話よ。 黒猫がその白く細い指を私の手に絡めながら囁いた。 彼女が生まれた町は本当に何も無い田舎でね、彼女の家はその中ではたった 一つ目立つ豪邸だった。彼女は世間一般のお嬢様と同じ様に育てられた。帝王 学、のつもりだったのかもしれないわね。でも彼女には何も必要等無かったの 何故なら、彼女は生まれた時にはもう全ての事柄を知っていたからよ。唯一つ 彼女自身の為すべき事を除いてね。彼女は自分を取り巻く人々全ての生立も行 く末も心の内さえもが手に取る様に解っていた。けれど、自分自身の事だけを 知らなかった。彼女はそれが不思議で堪らなかった。どうして、どうして、ど うして。何度も自問していたわ。 そんな或日、彼女は館の入口に有った大時計に興味を持った。理由は無いの 唯、無性に魅き付けられた。そして彼女は鍵を手に入れて、時計の奥を覗いて みたの。真っ暗な、闇だった。深淵、とでも形容するんでしょうね。深く、深 くて、とても深くて、滑りの有る、粘り着く様な闇の中で、彼女は絶対に知っ てはいけない事を知ってしまった。それは、 待て。それは今こいつに教えてはいけない。死神が話を遮った。次は俺の話 だ。 もう時間が無い。 俺の話は時計に巣喰う死神の話だ。 それは深い深い闇の底に棲み、時に思い立って餌を漁る。彼の餌は淫らな夢 吐き捨てられた言葉、壊れた時間等だ。そしてその残骸を掻き集めて人形を作 る。血を通わせ、酸素を貪り、肉を喰らい、大地を犯す人形、即ち人間と呼ば れている物だ。死神に作られた人形は決して長生きをしない。三十年を待たず に死んでしまう。それは人と人の狭間に潜み、人を模し、人として生きる。但 しそこは死神の人形、決して人では有り得ない。人外の力を秘めている。時に それは心の隙間を読み、時にそれは時間を越えた物を語り、時にそれは人を魅 了せずにはいられない。外見は大変美しいが型骸化しているので個々は非常に 良く似る。人形はその刹那の人外の生を創造主の想いに忠実に生きる。死神に 魅入られた人間は人形にも又魅入られる。そしてその僅かに名残った世界を空 虚に生きる。死神に魅入られているから最期の安らぎさえ与えられない。しか し、死神の人形は姿を変えて何度でもその人間の前に現れる。運命とは盲いた 獣なのだ。その鋭い牙の使い道を真実知っている。つまり、近付く物はそれが 何であれ貪欲に攫う。手当たり次第執拗に襲いかかる。飢えた盲獣は躊躇する 事を知らない。 死神が呼吸を置いた刹那、部屋の中に大きな音で柱時計の時刻を告げる音が 響いた。 もう、時間だ。 さようなら。 小父様、小父様。紫の声が聞こえる。眩しさに耐えて何とか眼を開くと、私 は大時計の前に座って居た。眩しいと思ったのは気の所為だったのか、それと もそれまで居た所が極端に昏かった所為なのかは解らないが、坂ノ下図書館は 寧ろ明るかった。 振り子は相変わらず一定の間隔で時間を刻んでいる。誰かが何かをした様な 気配は無い。 夢、だったのだろうか。 小父様、大丈夫? ああ、と私は返して、紫。紫は何を見たんだ? と訊い た。 私は、紫は小さな溜息をその可愛らしい口から零して、私は、大丈夫よ 私は、知っているの。何も彼も見たわ。惑星が膨れ上がって生まれ変わる瞬間 油だらけの海で水浴びをする水鳥。風向きが変わって焼け爛れる山。喜々とし て妊婦の腹を割く兵士。崩れ落ちた岩が削れて砂になる経緯。 私、あなたの事を知っているわ。 そうか。私は返した。僕も、紫の事を知っているよ。 有難う、小父様。紫はそう言うと目を伏せて続けた。……私、様々な大切な 人達と逢ってきたわ。私が今迄出逢った人達、今、関わり合っている人々、そ してこれから出逢う数え切れない程の人達。暫くは皆には逢えないし、もう二 度と逢えない人だって居たわ。小父様は、死神と黒猫に逢えたでしょう?そし て、出逢ったからには、必ず何時かは別れなければいけないわ。でも、小父様 悲しまないで。これは別に悲しい事ではないの。唯もう二度と彼等には会えな いだけ。道は別れて、二度と交差しないけれど、彼等と出逢えた事を歓んで。 別れは決して悲しい事ではないわ。だって、出逢えなければ別れる事も出来な いでしょう? 世界は広大だわ。大切なのは此の世界の中で奇跡的な確率で偶 然出逢えた事なの。それは、きっと、とても素敵な事よ。例えどんなに別れが 辛くても、誰でも、一人切りでは寂し過ぎるわ。 そうだな。私は頷いた。 さあ、一緒に帰りましょう。 私と紫は手を繋いで図書館を出た。 この広過ぎる世界の中で、もう二度と見失わない様に。しっかりと此の手を 握り締めて。