僕達、田中洋介と青山樹里は、友達の鈴巳優のうちでやっている喫茶店"Kool tresure"で、優のいれてくれた紅茶を飲んでいた。もう閉店時間よりもずいぶんオーバーしていたから、喫茶店の主人であり、優のお母さんであるところの孝良さんはとっくに奥の自宅に引っ込んでいて、照明の薄暗くなった店内には僕と樹里、優、それに優の彼女の世良百合絵だけが残っていた。
「そろそろ帰れよ」優が言った。
頭では冷たい奴だと思ってるのに、目は反射的に腕時計を見ていた。もうとっくに1時を回っている。閉店時間は十一時で、僕等はそれにぎりぎりで来た訳だから、もう2時間もいることになる。
「じゃあタクシーでも呼ぶよ」僕は紅茶の残りを飲んで、電話した。
「樹里、送ってくよ」
「ありがとう」
樹里が微笑んだ。緑色のピアスが揺れた。
タクシーが来るまでだらだらして、結局もう一杯紅茶を飲んだ。
優は紅茶だけでなく、一般にお茶と呼ばれるものならなんでも飛び切り美味くいれることができるという特技を持っていた。
見た目は金髪でピアッシングしてて、とてもそんな風には見えないので誰もがかならず驚く。
さらに料理も上手で、デザートやパスタといった比較的簡単なものから、中華料理の難しい奴やフルコースまでもこなすと百合絵が言っていたけど、残念ながらご賞味に預かっていないのでなんとも言えない。ただお茶はとても美味しい。
そんな事をぼんやり考えていたら、タクシーがやってきた。
「今度もっとうまいもの食わせてくれよ」
「考えとく」優は素っ気なく言って、見送りもしてくれなかった。やっぱり冷たい奴だ。
わかってたけどさあ、もうちょっと思いやりってやつががあってもいいんじゃない?
「家によってかない?」
タクシーの中で突然樹里が言った。
とっさに時計を見た。1時半を回っている。
「いいよ。もう遅いし。それに樹里の彼氏に悪い」少し棘がある言い方だったのが自分でも恥ずかしかった。
「別に構わないわよ。会ったこともない人に気を使うことなんてないじゃない。それに明日休みだし、いまさら少しぐらい遅くなったって文句なんか言われないでしょ。お茶くらい出すわよ、今まで散々飲んできたけど」
樹里は、僕の皮肉をあっさりかわして続けた。
「どうせあんなに飲んだんだからすぐに寝られやしないでしょ」
「今日はやめとく。また今度」
「意地悪」
「兄ちゃん、行ってやりなよ」
痴話喧嘩かなにかと勘違いしたのか、運転手が話に割り込んできた。
「かわいそうだろ、彼女」
「私達、どんな風に見えますか」
突然樹里が運転手にきいた。
「何言ってんだよ急に」
「だって気にならない?」
「まあ、それは…」と言い掛けて、僕は黙った。気になってはいた。
「そうだね、さっきの話からすると恋人同士って訳じゃなさそうだし、兄弟には見えないしなあ。まあ、普通に考えれば恋人ってのが妥当なんじゃないかな。時間が時間だしね」
「本当はただの友達なんですけどね」僕は苦笑いして言った。でも本当は少しだけ嬉しかった。少しだけ。
「そうなの。はい、着きましたよ」
いつの間にかタクシーは樹里のマンションの前に着いていた。
「よってってよ」樹里がもう一度言った。
「行ってやりなよ。無理にとは言わないけどさ」運転手も言った。
「今日家に誰もいないから怖いの。変な物音とか、怪しい人とかいたりするし」
「嘘つけ。新築のオートロックのマンションに幽霊や変質者なんかいるかよ」
「お願い」樹里が真剣な目で言った。グリーンのピアスが震えている。
「わかったよ」僕は渋々承知したフリをした
タクシーの料金は樹里がカードで払った。僕が無理に渡そうとすると、いいのよ、無理言って来てもらったんだし、と言って受け取ろうとしなかったので、僕は財布をしまうことにした。それにしても、アメックスのゴールドカード?何考えてんだこいつの親。
今まで車の中からしか見たことがなかった樹里のマンションは、実際に見ると凄く大きな建物だった。
樹里の親は商事会社の経理部長をしている人で、株で大儲けしたと言っていた。
それにしてもなんて贅沢なマンションだ。
「びっくりしてるでしょ。冗談みたいなもんよ。結構悪どいこともしてたみたいだし」
まるで人事みたいに樹里は言う。
「よそに女囲ってるみたいだし。私も人のこと言えた義理じゃないけどね」
樹里は笑っていた。でも目は笑っていなかったのを僕は見逃さない。
冷たく観察できるのは、恋をしていない証拠。いつまでも見つめているだけ。
なんだか詩人にでもなった気分だった。夜のせいかもしれない。夜の魔法。夜は人を麗美な詩人にも残酷な魔物にも変える。
…馬鹿みたいだ。
入り口の検問を樹里のIDカードでパスしてエレベーターに乗った頃には、もう魔法も解けて正気を取り戻していた。
「どういうつもりなんだよ。幽霊も変質者も全然見当たらないじゃないか。俺だって男なんだからな」
「襲ってもいいわよ」
樹里が微笑んだ。次の瞬間、樹里の唇が僕のに振れた。
「何すんだよ、いきなり」僕は動揺して口走った。
「嫌?」樹里が悪戯っぽい目で僕を見た。
心臓が少し早くなった。
エレベーターが止まって、いかにもという感じの成金風の若い男が乗ってきて、僕らの会話はとぎれた。
男があんまりじろじろ見るので、僕らはエレベーターが着くと同時に逃げるように降りた。
自分で言っておいて女のほうから不意打ちを食らってるウブな自分が情ない。
樹里の家、と言うか部屋、と言うかはとてもきれいに片付いていて、少し驚いた。もっと散らかっているのを想像していた。なんとなく。
「入って、その辺に座って。今お茶いれるから」
樹里は荷物を置くとすぐにキッチンのカウンターに入って手を洗って、ポットを出してきた。
小さなポットに冷蔵庫から出してきたミネラルウォーターを注いで、火にかけた。
「知ってるかー、ミネラルウォーターって本当はお茶に良くないんだぜ。化学で習わなかった?」
「あっそう」樹里は怒ったようにやかんの水を捨てようとしたので、とめた。
「ちょうどいいから水もらう。喉渇いてることだし」
「貧乏性ね」樹里はクスクス笑いながらグラスに水をいれて持ってきてくれた。
「しょうがないだろ、貧乏なんだから」
水を一口飲んで、やっとリラックスした。
「さっきのあれは何なんだよ。佐伯さんという人がありながら」佐伯さん、と言うのは樹里の恋人の名前だ。
「…」樹里は無言で蛇口をひねってポットに水をいれた。悲しげな横顔。何か言いたそうな様子。
僕はそれを見なかったことにして、ポケットから煙草とライターを取り出して火を付けた。煙に香りが乗って部屋を漂う。
灰を落とそうとして、灰皿がないのに気がついた。
どうしようか迷っていると、そのグラスに落としちゃっていいよ、と樹里が言った。
「そうはいかないよ」灰は今にも落ちそうだ。
「もう。変なとこで細かいんだから。いいわじゃあこれにいれて」小さなビールの缶が飛んできた。僕は中身をグラスに移すと、中に灰を落とした。冷たそうでうまそうだったけど、ビールには手をつけずに残しておいた。アルコールはまるで駄目なのだ。でなけりゃこんな夜中に素面でいるはずがない。
樹里がカップを二つとティーポットを持ってきて、ビールを一息に飲んだ。
「見事な飲みっぷりですぜ、姐御」
樹里がなんだかすごくセクシーに見えたので、照れ隠しに僕はジョークを言った。
「からかわないでよ」樹里が怒ったように言った。
「それより早く灰皿出してくれよ」
「わかったわよ」
樹里がどこかから灰皿を持ってきた。クリスタルガラスの、汚すのがためらわれるようなきれいな灰皿だった。
「俺ちょっと電話掛けてくる。どこ?」
「待って。持ってくる」
樹里が電話を持ってくる間、改めて部屋を見回した。凄く趣味のいい部屋で、家具とかもゴージャスで、それなのに嫌味っぽくない
のがいい。
樹里が戻って来た。
僕は自分の家に電話を掛けた。兄が出た。僕は兄の家に居候してて二人暮らしなんだから当たり前だけど。
「あ、兄貴?俺、洋介。今日遅くなるかもしんない。じゃ」電話の向こうで、なにが遅くなるだよ、こんな時間に、と言ったのが聞こえた。兄は物書きの仕事をしているので、こんな時間でも起きてるのは当たり前なんだから、文句を言われる筋合いはあまりない。
電話を切ろうとしたら、キャッチフォンの音が聞こえた。
「樹里、キャッチフォン。どうする?」
「貸して…はい、青山です」
樹里の顔に影がさした。嫌なことがあるとかならず見せる表情だ。
「もしもし、どなたですか」
「無言電話か?」
樹里は小さくうなずいた。
「貸せ」
僕は樹里から受話器をひったくった。
「もしもし」
A相手は黙ったままだ。
B何か嫌な事を言われた。
Cいきなり電話が切れた。
僕はこのどれかを想像した。
実際は、そのどれでもなかった。不気味な歌うような調子で何かぶつぶつ言っている。
僕は背筋が少し冷たくなるのに気付いたけど、大方酔っ払いの間違い電話かなにかだろうと結論して、樹里にそう言った。
「切ってもいいかな」
「そうして」
僕は電話を切った。
途端に、また電話が鳴り出した。
僕が出るわけにもいかず、かと言って樹里は出たくなさそうなので、そのままにしておくことにした。
その時。
ドアがどんどんいって、なにか叫び声のようなものが聞こえてきた。
僕はとっさに、変質者と幽霊の二つのパターンをイメージした。
どっちもまだ出会ったことはないし、可能性も低そうなので、とりあえず樹里の方を見た。樹里も凄く怯えた顔をしている。
さらにもう一つの可能性を思いついた。
「樹里んちの人が帰ってきたんじゃないの?」
「ありえない。お父さんもお母さんもお姉ちゃんも今日は遠くにいってて帰ってこれないはずだもの」
少しほっとした。あらゆる可能性の中で僕に一番不利そうな事態はとりあえず免れたわけだ。
「樹里、いるんだろ、開けろ」
声は次第にはっきりしてきて、そう言った。
樹里の顔が今までよりもいっそう蒼白になったのがわかった。
「誰?」僕は小声で尋ねた。
樹里は首を横に振るだけで、答えようとはしない。
「もしかして、佐伯って奴か?」
樹里はいっそう激しく首を降った。
間違いない。僕にとって最も不利な状況がやってきた。あらゆる意味でまずい。家族ならまだなんとか言い訳はできても、このままじゃ命がやばいかもしれない。
「でもどうしてここに?入り口は?」
「お父さんの用事で来ることがあったから…。入れるはず」
観念したように樹里が白状した。
樹里の話だと、佐伯は樹里の父親の部下で妻子持ち、樹里は遊びのつもりだったのに相手が奥さんと別れると言い出して、その事で最近もめていて、ここ数週間は会っていなかったらしい。
僕は初めて樹里が彼の話をするたび嫌な顔をした理由がわかった。
ポットがけたたましく鳴り出した。ドアも電話も鳴り続けている。
ピンチ。絶体絶命。
「どうする?」
「そうね、とりあえずお茶をしましょう」
おいおい。何て奴だ。それとも取り乱してるのか?どっちにしてもまともじゃない。
「熱い!」樹里が悲鳴を上げた。
「大丈夫か?」僕は駆け寄った。ポットが倒れて、湯気がもうもうと上がっていて、コンロの火は付いたままだった。…どうやら、相当混乱してたみたいだ。
僕はポットを起こして、コンロの火を消し、樹里の手をつかんだ。
「火傷は?早く冷やせ」
蛇口をひねって水を出し、樹里の手を当てた。
「布巾はどこ?」
樹里が示した場所から布巾を出して、床やコンロの周りの熱湯を拭いた。布巾がすぐに熱くなるので、次々に流しに投げ入れた。樹里がそれを洗って絞っているのを見たので、火傷は、と聞いたら、全然平気、と答えたので少し安心した。
「ふざけんな、いつまで無視してる気だ!」
佐伯が怒鳴るのが聞こえた。
僕は樹里の火傷の手当てをしている最中だったので、頭に来て怒鳴り返した。
「うるせえ、こっちは取り込み中なんだ、静かにしてろ!」
よく考えたら馬鹿なことをしてしまった。
相手に自分の存在を知らせることになるだけだ。
早速、誰だ、と怒鳴る声がした。
僕は意を決して言った。
「樹里、部屋に鍵付いてるか?」
樹里がうなずいた。
「じゃあ、そこにいって鍵掛けて、俺がいいって言うまで出てくるな。いいな」僕は精一杯虚勢を張って言った。
「だめだよ、洋介何されるかわかんないよ。あいつ相当飲んでるみたいだし、そうでなくてもかなりやばいシチュエーションなんだから」
「だってこのまま朝まで電話とドア鳴らしっぱなしにしとけないだろ」だんだん決心が鈍って来るのがわかる。怖くなってきた。残念なことにケンカは弱い。
「そのうち誰かが気付いて追っ払ってくれるよ。だから、無茶なことしないで」
樹里の華奢な肩が震えている。
「…」もう一声、樹里が引き止めてくれるのを期待して、僕は黙っていた。
「一人は嫌」
樹里が泣きそうな声で言うので、強がるのはやめることにした。
「じゃあ、一緒に隠れていよう。樹里の部屋でCDでも聴いてれば、そのうち帰るか追い払われるかしていなくなるだろ」
樹里がうなずいて、部屋に向かった。
電話もドアも鳴り続けていた。
樹里の部屋のドアを閉めると、不思議なことに何の音も聞こえなくなった。
「防音が完璧なの。驚いた?」
樹里は囁くように言った。
「どの家のどの部屋もこんなじゃ、だれも起きてこないのも当たり前だ」僕は半ば呆れてつぶやいた。同時に、おかしさが込み上げてきた。
「なに笑ってんのよ、こんな時に」
樹里も少しは安心したのかもしれない、声がずいぶんしっかりしてる。
「だって俺なんでこんな目に遭ってんだろ、考えたらずいぶん不条理だ」げらげら笑いながら言った。腹が苦しい。
「でもまあ、こうして樹里を危険で怖い目に一人で遭わせずにすんで良かったよ」
「まだ終わってないんじゃない?もしかしたら。…でも、サンキュ」
僕の頬に樹里がキスした。何てセオリー通りの女だ。
「お前なー、どういうシチュエーションなのかわかってんのか?『実録・恐怖体験 密室に男女二人きり』なんだぞ」
なんとなくエレベーターの二の舞な気がする。このままだと、見事に樹里のペースにはまってしまう。でもとりあえず一番の問題はそれもいいかな、何て考えてる自分だ。
「いいわよ。襲っても」
来た。
A襲う。
B襲わない。
Cその他。
とっさに頭にいくつかの選択枝が現れて、数秒でシュミレーションしてみた。
Aの場合。論外。
Bの場合。樹里との関係が気まずくなる可能性あり。最悪ホモだと思われるかも。
Cの決定を延期するにひとまず決定。
「とりあえずそういうのは後でにしよう」
「何考えてんのよ、やらしー」
「自分でふったくせに」
「後でだって。いやーん」
「なにがいやーんだよ、ばーか」
樹里が吹き出した。僕も、また笑いが込み上げてきた。
二人で笑い転げた。十五分くらい。
「これからどうする?」
僕がまだ笑いの名残を口元に残したまま煙草に火をつけたとき、樹里が言った。
「どうするって、どうしようもないだろ」
「そうね」
樹里も煙草を取り出して、口にくわえた。
「火」
樹里が顔を近づけて、僕の煙草から火をつけた。何て大胆な。
甘ったるい煙を吐き出して、樹里は立ち上がった。
「遊ぼうよ」
「何して?」
「何がいい?」
「何でもいい」
と、いうわけでトランプをすることになった。よりによってこんな時になんでトランプなんだろう。別にいいけど。
ポーカー、セブンブリッジ、神経衰弱、七並べ、大富豪、ブラックジャック、ババ抜きジジ抜き、スピード、ついには占いまで、思い付く限りのゲームを一通り終えた頃には、夜も明け始めていた。
樹里は神経衰弱やブラックジャックと言った運を使うゲームは凄く強いのに、大富豪やポーカーのような駆け引きのゲームは馬鹿みたいに弱かった。
ふと、自分の置かれている立場を考えたらなんだか奇妙な気分になった。
無理やり女の家に連れてこられて、そいつの男のせいで閉じ込められて、こうしてトランプなんかしている。
樹里にとって僕は、一体何なんだろう。
彼氏、ではもちろんないし、友達、にしてはあの挑発的な態度が気になる。
『襲ってもいい』とか言ってるけどどこまで本気かわからない。
たとえ本気だとしても僕がそんな事できるような奴じゃないのは樹里もよく知ってるはずだ。
じゃあ何なんだ一体?
そう言えばもう一人、佐伯は一体どうしてるんだろう。
突然彼のことが気になり始めた。
夜の中で一人携帯電話を鳴らして、ドアの外にいる男。
凄く惨めな奴だ。
まだドアの外で怒鳴り続けてるんだろうか。
ちょっと切なくなった。
「さて、と。次は何する?」
樹里がトランプをシャッフルしながらきいた。
いい加減トランプにも飽き、佐伯のことも気になる僕は、様子を見てくる、と言って立ち上がった。
樹里の部屋を出て、しんと静まり返った廊下に出る。
静まり返った?
佐伯は諦めたんだろうか。それとも、別の作戦に出る気なのか?
…もしかすると、くたばったのかもしれない。
電話もドアも鳴っていない。
ドアに近付いて、チェーンを閉めたまま少しだけドアを開けて外の様子をのぞくと、案の定佐伯は寝込んでいるようだった。
強いアルコールの匂いが鼻を刺す。
吐き気がしたのでドアを閉めたら、音に気が付いたのか佐伯が目を覚ました。
「樹里か?」
僕は黙っていた。
「樹里、俺はなあ、別れる。女房と別れる。だから…」
全てを聞かずに部屋に戻った。いたたまれなかった。あれじゃあただの敗残者だ。
なんとなく、樹里に関わった男として、ああいう姿は見せてほしくなかった。
「まだいた。でももう気力は尽きたみたいだった。なあ、なんとか言ってやったら?」
「何言えばいいの?新しい男ができたからもういらない?それとも最強の捨て台詞、これ以上嫌いにさせないで?冗談じゃないわ」
「それもそうだな」
僕は引き下がった。プライドが高いくせに妙に優しいところのある樹里に、そんなこと言えるはずがない。それに、言って欲しくない気もする。期待過剰?
樹里は冗談じゃない、って言うだろう。
「とりあえず、寝ない?どうしようもないんだし、朝になればなんとか解決するかもしれないし。どっちにしたって私たちにできることなんてないんだし」
さっきまであんなに怯えていたのが嘘のように樹里はクールだ。
そしてそこがいいとか思ってる自分が情ないような、愛しいような…。
やっぱり、馬鹿みたいだ。
「シャワー浴びてくる。のぞかないでね」
樹里は言い残してバスルームに消えた。
僕は、苛立たしいような、不安なような、不思議な感情におそわれた。
樹里はあまりにも無防備すぎる。
警戒心がゼロだ。
樹里は僕を安全な男だと思ってるんだろうか。それとも…。
こんなに異常なシチュエーションも最初は怯えていたのに今は全然平気に見える。
不思議な女だ。
樹里の部屋。シンプルで、物が少ない。意外なことに本棚にはシェイクスピアのテンペストがある。コンポの側の棚にはずらっとCDが並んでいる。僕は樹里が帰ってくるまでの手持ちぶさたな時間をどう過ごしていいかわからず、ふらふらとリビングまでやってきた。佐伯の声はもう聞こえない。
水とビールを飲んだグラスも、使われないままのティーポットとカップもそのままの姿で残っていた。
キッチンのコンロの上にはポットもある。
僕はなんとなくポットに水をいれ、火にかけた。グラスを水ですすいで、棚に戻す。布巾をよく絞って、積み上げる。あっという間に清潔な白い山ができた。
ビールの缶を軽くすすいで、不燃物用のごみ箱に捨てる。
やることがなくなったので、リビングに戻って煙草に火をつけた。
2本目に火をつけようとしたら、ポットが鳴り出した。僕は急いでキッチンに回って火を消した。
本当はコーヒーが飲みたかったけど、どこにあるかわからなかったので、例のティーポットにお湯を入れて、紅茶を飲んだ。
樹里には冷たいものがいいかな、なんて考えてたら、シャワーを浴び終わった樹里がやって来た。ノーメイクのせいかいつもより幼く見える。
「何してんの?」
僕はちょっと戸惑った。確かに他人の家で勝手にお茶をいれて飲んでるのはおかしなことだと思う。
それに相手にしてみればあまり気持ちのいいことじゃないだろう。
「まあいいわ。私にも」
僕はカップにお茶を注いで樹里に差し出した。
「洋介もお風呂、どうぞ」
「でも着替えとかないし、いいのか?」
「別に。それとも何か食べる?」
「何か新婚の夫婦みたいだな。『お風呂を先にしますか?それともお食事でも?』」
「私はそんなタイプじゃないわよ」
「わかってるよ。そう言えば腹減った。何か作ってくれんの?」
「めんどくさいからレトルト」
「そんなー」
「わがまま言う子には何も作ってあげません。」
「ごめんなさいママ」
樹里が吹き出した。本日2度目。僕も笑った。
樹里がキッチンに立って冷凍庫の中を探している。
「うーん、ラザニアでいい?」
「ナイス。俺それ大好き」
「じゃ、決まりね」
冷凍のラザニアがあったまるまで、窓の外を見ていた。もうずいぶん明るかった。時計を見ると、午前5時だった。ブラインドの隙間から、部屋中に朝の光が差している。
チン。
電子レンジが止まった。
二人でラザニアを食べた。なかなかおいしかった。二人とも黙々と食べた。
「さて、風呂でも入るとしますか」
皿を洗って、ポットもカップも片付けて、僕は言った。
樹里が場所を教えてくれた。
清潔で、使いやすかった。
熱いお湯を浴びながら、眠りたがっている意識と、覚醒しようとする意識の戦いを眺めていた。
いろいろあって凄く疲れた。
これまでのこと、これからのこと。
考えるだけでも溜め息が出る。
はっきり言って、もう勘弁してほしい。でもそうもいかないだろう。
バスルームから出て、リビングに行くと、樹里がソファで寝ていた。テーブルには、アイスティーが置いてあった。二つグラスがあって片方が空だから、僕が飲んでもいいんだろう。
「気がきく」
僕は囁いて、樹里の額にそっとキスをした。