パン工場に昇る朝日
アンパンマン外伝制作委員会
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登場人物概略
ドキンちゃん 花も恥じらう乙女。気性が荒いのが玉にキズ。テロリストとしても名高く、その美貌と知恵で幾つもの作戦を成功させているが、黴菌マンと組んでからはめっきり上手くいかなくなった。
黴菌マン ドキンちゃんの恋人気取りの男。不潔。テロリストだが作戦をことごとく正義の味方達に邪魔されている。なぜか群衆を操作するのは上手く、大学で心理学を勉強していたからだとドキンちゃんは考えている。
黴菌仙人 ドキンちゃんと黴菌マンのブレイン。多彩な妖術を駆使する。色惚けジジィ。なぜか赤ちゃんマンと親交があり、彼が心を許している唯一の人物である。
赤ちゃんマン どこにも属さない特殊傭兵部隊のリーダー。彼は仲間を持たず常に一人で戦地に向かうため、孤高のヒーローとして半ば伝説化している。ただし黴菌仙人には心を許している。
KABY ドキンちゃんと黴菌マンの部下のチームの略称。俗称カビルンルン。暗殺や破壊工作を得意とする。正式な名称はkilling&assasination
brothers youth 。なぜか戦闘の際に全員で一斉にハミングする。
食パンマン ドキンちゃんの片思いの相手。正義の味方。ニヒリストで、他のチームメイト達とは一線を画している。日に焼けやすいが基本的に色白で、実は自分の顔の形が四角いことを気にしている。
アンパンマン 食パンマンの仲間。黴菌マンのライバル。チームのリーダー的存在。その割には結構黴菌マンに撃退されることも多い。その主観的な行動理論が反発を呼び、愛と勇気だけが友達さと言って自分を慰めている。
カレーパンマン 食パンマンの仲間。自信過剰。独特のユーモアセンスとエキゾチックな行動で他を煙に巻くことが多い。特殊武器を扱うのに長け、ブービー・トラップを仕掛けるなどのゲリラ的戦略を得意とする。
メロンパンナ アンパンマンの恋人的存在。ロリータ。姉に仕込まれたテロリスト撃退術は一流だが、あまり出張るのは良くないと考えて躊躇しているうちに他人に手柄を奪われてしまう。
ロールパンナ メロンパンナの姉。厳しい。体育会系。対テロリスト用の訓練を積んでいて、カウンター・テロの達人だが、妹の才能には適わぬ事を悟り、内心嫉妬している。反面、妹の煮え切らない行動に苛立ってもいる。
ジャム小父さん 食パンマンを初めとした正義の味方達の司令塔。重戦車を操り自ら戦地に赴くこともあるが、普段は気の良いパン屋の仮面を被っている。愛犬家。
バタコ ジャム小父さんの秘書。色気がなく、ドキンちゃんは彼女を毛嫌いしている。彼女の事務能力は優れたのもがあるが、感情を表に出しやすいと言う致命的な欠陥があり、秘密保持能力は限りなくゼロに近い。
チーズ ジャム小父さんの愛犬。ゴールデン・レトリバーだが、頭は悪い。餌を与える人物ならば誰にでもなつくので、番犬としては役に立たない。ジャム小父さんの周辺には欠陥商品が多いようだ。
河馬男君 いつも厄介ごとに巻き込まれては正義の味方達に救いを求める社会的弱者。黴菌マンに対して警戒心を抱いてはいるが、結局いつもその手口に騙されてしまう。
鉄火のマキ 忍。御結びマンとは一時的にパートナーだった事がある。棒術の達人で、常に三節棍を携帯している。そのほかの武器の扱いにも優れ、鞭や手裏剣、銃器や火薬の扱いにも秀でているが、刃物だけは苦手である。
おむすびまん 侍。鉄火のマキのかつてのパートナー。マキの苦手とする剣術の達人である。刀を持つことに信念があり、他の武器は一切使おうとしない。あくまで武士道を貫こうとする硬派。
こむすびまん 御結びマンの弟分。何をするにも兄貴分の意見に迎合する。自分がないのか御結びマンに心酔しているだけなのかは傍目には解りかねる。一説では陰間の出身だとも言うが、謎は多い。
天丼マン さすらいの三人衆の一人。一見最もまともだが、時に天然ボケで周囲を白けさせる。言っていることが酷く抽象的かつ過剰修飾なことがある。実は文学マニアだったらしい。
カツ丼マン さすらいの三人衆の一人。帰国子女で、西洋かぶれであり、訳の解らない怪しい外国語を交えて喋る。そのくせどこの国に行っていたのかは決して言おうとしない。
釜飯マン さすらいの三人衆の一人。地方出身で、田舎者。訛が酷く言葉が聞き取り辛い。自分の出身地を誇りにしているが、やはりどこの出身なのかは言おうとしない。
第一章 ドキンちゃんの憂鬱
彼女はいい加減『彼』に対して辟易していた。弛緩した顔、愚鈍そうな口振り、そして自分では気に入っているらしい捨て台詞。捨て台詞など、弱者にしか必要ない。
私は本来ならこんな所で燻っているような女じゃないのよ。彼女は、輝かしい過去の栄光時代を思い浮かべて溜め息をついた。そして彼女はこんな所への派遣を引き受けてしまったことを少しだけ後悔した。
何でこんなトコにきちゃったんだろ。そう思って彼女はコクピットのシートに深々と身体を沈め、一際大きな溜め息をついた。もう何もやる気がしない。どんなに私が作戦を立てたところで、結局はみんな失敗してしまうんじゃない。それもこれもみんな隣の飛行体で眼をぎらつかせているあの男のせいだ。彼女は憎々しげな視線を送ってみるが、当然『彼』は気付きもしない呑気そうに手を振ってみたりしている。彼女は彼を無視して三度目の溜め息をつき、カチューシャにしていたサングラスを引き下ろした。
希代の天才テロリストとして名を馳せていた彼女がこんなどうでも良いうな所にやってきたのは、ちょっとした好奇心と軽い自惚れからだった。仲間の一人(『彼』の事だ)がいつまで経っても落とせないでいる地域と言うものに興味があったし、私なら簡単に始末できると踏んだからだった。
彼女はどこにでもいるいわゆる『正義の味方』に対しては仲間でさえも恐れるほどに冷徹だった。しかし、この地にやってきてからはどうしても本気で挑むことができなかった。『正義の味方』の一味の一人に、恋をしてしまったからだ。凛々しい表情、穏やかな物腰、そのくせ仲間に対してはどこか冷めた所のある態度が、彼女の心をひどく魅きつけてやまなかった。
私もやっぱり女だったのね。彼女は皮肉な笑みを口元に浮かべ、操縦桿を握り締めた。 今日は飛ばしたいわ。
突然全力で疾走し始めた彼女の飛行体を、『彼』は間の抜けた顔で見つめていたが、暫くして漸く自分が取り残されたことに気が付いた。
「待ってよー、ドキンちゃーん」スピーカーから、『彼』――黴菌マンの声が聞こえた。
「煩いわね、一人になりたいの」彼女はスピーカーのスイッチをオフにした。
第二章 鉄火のマキの苛立ち
彼女が強烈な平手を放ったとき、彼女の手には、堅く、独特の粘り着くような男の肌の感触が残った。
「拙者は、」男は何かを言い掛けた。しかし、途中で口をつぐんでしまった。
そう、それで良い。男子たる物、言い訳など笑止。素直に自分の非を認めるのが武士だ。例えそれが誤解であったとしても、自らの言い分を相手に伝えるだけの言葉が足りなかった、それだけのことなのだ。
彼女は既に承知していた。これが完全に自分の一方的な八つ当たりだと言うことを。しかし、彼女も武の道に生きる者である。一度出した言い分を引っ込める訳にはいかぬ。
「それではあんまりでござる、マキ殿。それがしは、それがしは、」
「良いのだ、こむすび。拙者が悪いのでござる」
情ない声で彼女を非難した彼の従者を、凛とした声で彼がたしなめた。その声の調子が投げやりな所など微塵もないのが、余計彼女の気に触った。
彼女はこのこむすびまんという小男が嫌いだった。彼の主人であるおむすびまんには少なからぬ好意を抱いてはいたが、こいつだけはどうしても気に入ることができなかった。いつも弱々しい声で囀るように話し、おむすびまんにべったりと着いている腰巾着。そして今回の失敗もこいつの所為だったのだ。その結果がこの様だ。許せる訳がない。「それでは、拙者達は行くでござるよ。マキ殿も達者でな。またいつか、縁があったら会うこともあろう」
彼が行ってしまう。彼女はじりじりとした灼け着くような心持ちを持て余していた。今すぐにでも追いかけて、一言、謝るだけで良いのだ。
素直になれない。そんな自分のことが無性に苛立った。
しかし、彼女は女である前に忍だった。不様な姿を晒すくらいなら舌を噛み切って死ぬくらいの覚悟はできているし、実際修行の際もそう教えられた。そして自分の感情を殺す訓練も、相手を仕留める訓練と同様に長い年月の間に積み重ねていた。そして今、彼女は自分のその性質を悲しいほどに恨んでいた。彼女はそれらが全て所詮は意気地のない自分への言い訳に過ぎぬことも承知していた。
私は今、とても大切なものを失おうとしている。
第三章 ロールパンナの焦燥
彼女は焦っていた。
このままではいけない。もっと、もっと修業を積まねば。
彼女は幼い頃から修行に明け暮れる毎日を過ごしていた。そして今の技術を身に着けたのだ。それが、たった数か月の修行で妹に先を越されようとしている。妹は、私が血の滲むような修行のをしている最中に両親に優しくされ、沢山の仲間に囲まれ、恋をし、人生を楽しんでいたのだ。
そんな妹に、私が負けようとしている。
そんな筈など無い。彼女は自分に言い聞かせる。いいえ、違う。それでも良いのだ。優れた技術を持つ者はいくらいようが良いに越したことはないではないか。
でも、と彼女は考える。妹は私の教えた技術を充分に実践で活用してはいないではないか。それは許されないことだった。少なくとも、彼女にはそれが理解できなかった。妹の周囲には確かに優れた人材が多い。リーダーシップをとるのが上手いもの、常に冷静沈着なもの、細かい作業の得意なもの。そう、妹は彼等の傍にいる必要などないのだ。私達の技術を必要としているところは幾らでもある。私と妹が組んで仕事をすれば、どんなテロリストにだって負けはしない筈なのだ。
しかし、妹は決してこの土地から動こうとはしない。確かに緑も多く、空気も清涼だ。しかしそんなことはテロ退治には関係のないことだ。厄介なテロリストはいるが、それに対応できるだけの人材も充分過ぎる程にいるのだ。
これでは宝の持ち腐れではないか。
彼女は軽い苛立ちを覚え、竹刀を振り下ろす手に力が入る。
もっと、もっと、
どんどん力を込めていくうちに、打込み用の木偶人形は壊れてしまった。
彼女はそれでも執拗に木偶人形の残骸に向かって竹刀を振り下ろす。
もっと、もっと修行をするのだ。誰にも負けない、そう、妹にさえ負けない力を。
違う。彼女はふつふつと沸き上がる邪念を振り払うために一層熱を込めて修行に励んだ。
もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと。
第四章 天丼マンの黄昏
陽が傾き始めていた。
隣の席には、どこの国での話なのか解らない留学先の武勇伝を語る友人とそれにいい加減な相槌を打つ田舎者の友人がいた。
彼はグラスを傾けて中身を飲み干すと、カラカラと良い音をさせてロックアイスを鳴らした。
テーンテーンドーンドーンテンドーンドーン。
無意味なメロディー。いつの頃からか自然に口ずさむようになっていた旋律を、彼はそうと気付かずに今日も歌っていた。
入り口のベルが鳴って、赤と言うよりはオレンジに近いスーツの女が店に入ってきた。女は彼の隣に腰掛け、とても強いタイプのアルコールを注文した。バーテンダーが慣れた手つきでグラスを渡すと、女は一息でそれを飲み干した。グラスをバーテンダーに戻し、次のドリンクが出来上がるまで、しばしの間があった。
「何かあったんですか」彼は話しかけてみた。
「別に。たいしたことじゃないわよ」
「そうですか」そして彼はまたあのメロディーに戻った。
陽が完全に沈んでしまった。
こんな時間、彼は無性に人恋しくなる。
隣の友人達の会話は釜飯マンのお国自慢に移っていた。しかし、こいつだってどこの出身かを突っ込まれれば答えられないのだ。
彼は指でカウンターにリズムを刻みながら、メロディーを口ずさんだ。
と、その時、店に新しい客が現れた。和風の黒地の着物に身を包んだ、すらりとした長身の女だった。今日は良い女の当り日だったらしい。
黒服の女は先程のオレンジのスーツの女の隣に座り、飛び切りの超一級酒を注文した。そしてやはりそれを一気にあおると、二杯目を注文した。
彼はブランデーを注文して一息に飲み、勘定をして店を出た。
友人達は放っておくことにした。
一人、まだ昼の余韻の残る空を見上げていると、彼はなんだか妙に懐かしいような切ないような気分になった。
俺はまだ、人を愛せるだろうか。
第五章 ドキンちゃんの夢想
ドキンちゃんが煙草の煙るバーに入ったとき、開いている席はカウンターしかなかった。本当はボックス席で静かに飲みたかったのだが、この際仕方ない。
「ご注文は?」
「アルコールが入っていてヤワじゃないヤツなら何でも良いわ」
「解りました」
彼女に差し出されたのは、ライムとレモンを搾っただけのウオッカだった。
いい度胸じゃない。彼女はそれを一息に飲み干した。喉が灼けるようだったが、今はむしろそれが心地好かった。
グラスを戻し、二杯目を待つ間に隣の席の男に声を掛けられたが、適当に流したらそれ以上は突っ込んでこなかった。
これだからカウンターって嫌いよ。
二杯目をちびちび飲みながら、彼女は彼の顔を思い浮かべた。あーあ、どうせなら彼と一緒に飲みたいなー。そして彼女は彼の飲み方を空想する。喉仏がゆっくりと動いて、アルコールが彼の身体に吸い込まれていく……
そしてベルが鳴り、彼女の空想は中断を余儀なくされた。
彼女は振り向いて新参者の顔を見た。どこかで見た顔ね。まあいいわ、関係ないでしょ、今日は。
喪服ともとれる黒い着物を着た女は、彼女の隣に席を決めた。最高クラスの日本酒を一息で飲み干したのを見て、ああ、彼女も私と同じね、と彼女は思った。
先程声を掛けて来た男が一人で席を立ち、隣の女は静かに飲み始めたので彼女はやっと求めていた静寂を手に入れることができた。
そして、彼女は空想に戻る。良い頃合にまで酔って、私と彼はバーを出る。そして適当な場所に乗り物を止めて、夜景でも見ながら、彼の肩に頬を寄せる……
彼女はそれが自分の空想の世界でしか起こり得ないことを知っていた。彼女と彼は敵同士なのだ。絶対に有り得ない。ましてやこの街には夜景と呼べるような場所など存在しないのだ。
虚しいだけね。彼女は自嘲的に微笑んだ。
第六章 鉄火のマキの渇望
彼女は渇いていた。
男の肌のぬくもりが掌にかすかに名残っている。彼女はそれを頬にあてがい、そんな自分の腑甲斐無さに少しだけ酔った。
彼女は渇いていた。
男の肌を、男の身体を、男の声を、男の心を感じたかった。
それまでの禁欲的な生活の反動だろうか。そんな事を考えてみたりもした。
どんな形ででも良い。もう一度、あの男に逢いたかった。そして、侍と忍、一時的なパートナーなどではなく、男と女として向き合って欲しかった。
彼女は渇いていた。
彼女の渇きは、幾ら酒を飲んでみた所でまったく癒されることはなかった。
女。
彼女は、自分が女であることをこれ程憎んだことはなかった。
同時に、自分が女であることを誇りに思ってもいるのだった。
二つの相反する感情を、彼女は持て余していた。
目の前の杯を一息にあおった。
ジレンマ。
彼女は誰か知っている人に会いたかった。誰でも良い。この心持ちを分け合える友が欲しい。しかし彼女は承知していた。それが悲しい願いに過ぎぬことを。彼女は時に誰かと組むことはあっても、友はつくらないことを主義としていたのだ。つまらぬしがらみは動きを奪う。愛だの友情だのというものは下らぬ。そう考えて今まで暮らしてきたのだ。友など居る筈がないし、恋などする筈がなかったのだ。
それがこの有様だ。いっそのこと、適当な人間、顔も知らぬような行きずりのものに洗いざらいぶちまけてしまおうか。例えば隣の席で飲んでいるこのオレンジ色の服の女。しかし彼女は彼女にはそれが出来ぬことを知っていた。隠密を生業とする人間がそのようなことは出来ぬ。酒の席でのこと、では済まされぬのだ。
そして彼女はあることに思い至る。彼女には、唯一人だけ友と呼べるものがいることを。
ロールパンナ、か。彼女は今何処に居るのだろう。
第七章 ロールパンナの決心
彼女はある決心を固めた。どうしても、これだけはやっておく必要がある彼女は戦闘用のアラブ風の衣装に着替え、あの場所に向かった。
パンの焼ける美味しそうな香りが漂っている。そう、ジャム小父さんのいるパン工場だ。妹も、そのチームの連中も皆ここに住んでいる。しかし、今は町で河馬男君が彼女の仕掛けた罠に嵌まって、その救出に出払っている。彼女はそれを自分自身の目で確認していた。
彼女はシャッターを開け、工場に忍び込んだ。
目的は一つ。ジャム小父さんの秘書兼助手のバタコをさらうのだ。
番犬のチーズにはあらかじめ餌を与えておいた。これで彼女に吠え付くことはない。安心して作業に専念できる。
何度かこの工場には訪問したことがあるので、勝手は知っている。間取りも完全に頭に叩き込んであるし、手順も完璧だ。
おそらくバタコはまだパン焼き釜でジャム小父さんと一緒に作業をしているはずだ。後数分で仕込みが終了する。緊急時に供えてのスペアのアイテムを作り、次の日の仕込みを終わらせてからジャム小父さんとバタコは眠りに就く。そのときがチャンスだ。バタコの寝室のクローゼットに隠れ、息を潜める。バタコはいつも工場の見回りをした後、作業着を着替えてから眠りに就く。その時点ですでにジャム小父さんは眠っている。バタコが着替えを取り出すとき、彼女は襲いかかる。パーフェクト。そして物音を立てないように退散するだけでいいのだ。
クローゼットの中には、イーストの匂いがした。
息を殺して、彼女は耳をそばだてた。足音。体重は軽い。ジャム小父さんではない。クローゼットの隙間から、彼女はバタコの姿を確認した。
今だ。
彼女はあらかじめ用意しておいたクロロホルムをバタコにかがせ、彼女を背負って工場を抜け出した。チーズは呑気に眠っている。
工場のシャッターに張り紙をして、仕上げは完了だ。
彼女はバタコを誰も知らない秘密の小屋に幽閉して、猿轡を噛ませ、縛り上げて、普段着に着替えた。
一仕事終えた彼女は、行きつけのバーに向かった。
第八章 天丼マンの孤独
彼は一人部屋で孤独を感じていた。
なぜだろう。まるで大雪原を一人友の肉を貪りながら歩いているような気分だった。薄く開けた窓からは街の喧騒がゼリーで固めたインクのようにゆるゆると忍びやかに侵入してくる。そして街が賑やかなら賑やかなほど余計に寂しいのはなぜだろう。
時折、ふっと時間が止まったかのように街の音がとぎれることがある。
そして、バーで自分の隣に座っていた女のことを思い出す。
不思議な色のルージュをさした唇に吸い込まれていった酒が、陶器のように白い喉を通り抜け、頬が薄紅に染まる。
再び、喧騒が流れ出す。
そして彼の孤独はまた強くなっていく。
知らず知らずのうちに、またあのメロディーを刻み始める。
テーンテーンドーンドーンテーンドンドン。
そして街全体が考え込んでいるかのように街の音が消える。
そんな時だった。電話のベルの音が鳴り響き、彼は現実の波に引き戻された。彼は億劫そうに立上がり、受話器を取り上げた。電話の向こうでバーテンダーが彼の名を確認し、友人達の名を告げて引取りに来るように言った。
彼は壁に掛けてあったコートと帽子を取り、再び街の中に戻っていった。
彼は期待していた。あの女、隣の席の女にもう一度逢えるかもしれないという淡い期待を抱いていた。
無意識のうちに、またあの旋律を口ずさんでいる自分に気が付いて彼は少し赤面した。 彼がバーのドアを開けようとしたとき、隣に白いドレスの女がいるのに気が付いた。彼女も客らしい。そしてあのオレンジのスーツの女とも、黒い着物の女とも違ったタイプの魅力があった。スーツの女を美人、着物の女を妖艶とするなら、彼女はエキゾチックな魅力を持っている。褐色の肌、挑むような視線。やはり今日は良い女が集う日だったようだ。
彼がドアを開けてやると女は軽く会釈をしてカウンターに座り、隣の和服の女を見て少し驚いたような顔をしてからラム酒を注文した。
彼の期待通り、オレンジのスーツの女はまだカウンターで酒を飲んでいた。
第九章 ドキンちゃんの挑発
ドアが開いて、随分前に彼女に声を掛けた男と、どこか異国的な女が店に入ってきた。女は彼女の二つ隣の席――喪服の女の隣――に座り、喪服の女を見て少し驚いたような顔をした。喪服の女も彼女を見て驚き、二言三言話してから白いドレスの女はラムを注文した。
彼女は不毛な空想にも飽き、幾ら飲んでもちっとも酔わない酒にも飽き始めていたので、店の喧騒を聞くともなしに聞いていた。
女達がいる席とは反対側に座っていた怪しい男達はいつの間にか酔い潰れボックス席の客を避けて寝かされていた。時々うわ言のように聞き取りずらい発音で何か喋るが、彼女には何を言っているのか全く解らなかった。彼等はさっきの男に介抱されていた。連れだったようだ。そう言えばどことなく雰囲気が似ていないこともない。
他にめぼしいものもなかったので、彼女は隣の席の女達の話に聞き耳を立てた。雑音の中で特定の声を聞き分けるのは、テロリストで蝶報活動もやったことのある彼女には簡単なことだった。
久し振りね。何年振りかしら。
貴女と以前逢ったのはもう3年は前の事。良く覚えていて下さりました。今はどんな活動をなさってるのですか。
私は今だって現役よ。妹を仕込んだりもしているけどね。そろそろ次世代のことも考えないといけないし。
貴女と話しているとあの頃のことが忍ばれるようです。私は、あの頃、貴女と仕事をしていたときが一番楽しかった。こういうのは不謹慎でしょうか。
仕方ないじゃない。そういう仕事だもの。私も、マキとの仕事は楽しかったわ。お世辞じゃないのよ。
有難う。貴女に逢えて嬉しい。
……再会したばかりのマキにこんな事を頼むのは心苦しいのだけれど、私今とても厄介な仕事を始めたところなの。手伝ってくれないかしら。
それは、どのような。
面白そうね。彼女は身体にかつての情熱がやってくるのを感じた。天才テロリストだった頃の、彼女の栄光時代の。
「その話、私もまぜてよ」
第十章 鉄火のマキの思惑
彼女は唯一の親友との再会に、心の底から喜んでいた。しかも、彼女は仕事の話まで持ち込んでくれたのだ。もう一度彼女と仕事ができることも嬉しかったし、それ以上に今すぐにでも何かに打ち込まなければ彼女の自我の崩壊は目に見えていたのが大きかった。そして謎の女の参入により、展開は複雑な様相を見せようとしている。複雑なら複雑なほど好都合だった。彼女は何かに夢中ですがらなければいけなかったのだ。
「自己紹介がまだね。私はドキン。ドキンちゃんって呼んでね」
「私はマキ。鉄火のマキと呼ばれております。隠密を生業としています」
「私はロールパンナ。基本的にはテロ退治を仕事としているわ。要請があればどんな戦場にでも飛んでいくけれど」
「そう」謎の女、ドキンちゃんは不敵に微笑んだ。「じゃあ、私は本来ならあなたたちの敵になるのね。私の本業はテロリストだもん」
大体の予想はしていた。酒場にいながら、押さえてはいても油断のならない殺気を感じていたからだ。彼女が酔えなかったのは、その殺気の所為もあったのだろう。
彼女は改めてドキンちゃんを観察した。淡い青紫のシャドウ、真珠色に薄く橙の混じった口紅。すらりとした体躯は、八頭身はあるだろうか。それにぴったりと張り付くようなスーツが良く似合う。肌の色は人形のように白く美女とはこういうものだという模範のような姿。
彼女は自分の姿を考えてみた。黒地の着物。白菊と龍をあしらい、裏地には赤紫を用いている。内腿の部分には三節棍を忍ばせ、袖には小型の自動小銃を、襦袢には鞭も隠し持っている。胸の部分には手裏剣や火薬が巧妙に隠されている。しかし傍目にはそうとは解らない。そういう風に作ってあるのだ。何時でも戦闘体制に入れるよう、不断の緊張を保つための装備である。本格的な戦闘に入るときには、さらに鎖単衣、手甲、鉢金などが加わり、総重量は十数瓩にも達する。通常装備だけでも数瓩はあるので、彼女の身体は引き締まって均整が取れている。そう捨てたものではない。彼女はそう思った。彼女は身長も高いし、容姿も悪くはない。その気になれば遊女でも食ってはいけないこともない。
彼女は自分を再確認する事で邪念が少しだけ遠退いたのに気が付いていた。
第十一章 ロールパンナの陰謀
ねえ、その作戦、人質は多い方が良いんじゃないの。ドキンちゃんが言った。例えば、関係ない一般市民とか、ね。
流石はテロリストだ。やることがえげつない。しかし彼女も既に神経が限界まで磨り減っていた。生まれて初めての悪事。しかも相手は恐らく最強のチーム。私の技術のほぼ全てを受け継いだ妹、常に冷静沈着な男、食パンマン。全体の指揮を執らせたら右に出るものはいない上に、単独の能力も侮れ無いアンパンマン。ゲリラ的戦略を得意とし、予想も付かない攻撃を仕掛けるカレーパンマン。そして全体の頭脳であるジャム小父さん。そして恐らくはさらに傭兵が加わるだろう。
それに大して私達は女ばかり三人。しかし誰もがその筋ではスペシャリストだ。天才テロリストとして名を轟かせているドキンちゃん。紅蓮の女忍者くノ一鉄火のマキ。そして私、テロ退治の専門家のロールパンナ。テロサイドからもそれに対抗する側からも、多角的に状況を仰ぐことができる。しかもドキンちゃんは部下を総動員してくれると言う。彼女の直属部隊カビルンルンと言えば死線上のハミングと呼ばれる謎の集団だ。心強いことこの上ない。
ここは場所が悪い。どこか、別の所で話し合いましょう。マキが提案した私も賛成だ。異存はない。
だったら、とドキンちゃんが切り出した。良い所があるわ。黴菌仙人様にも乗ってもらいましょう。それから、一般市民代表の人質は、彼ね。そう言ってドキンちゃんは後のボックス席で酔っ払いの介抱をしている男を指差した。先程、ドアを開けてくれた男だった。
男を言葉巧みに誘い出し、私たちはバーを出た。ドキンちゃんのマシーンに乗りこんで、黴菌仙人の住む山へ急ぐ。
途中で自分のアジトにより、監禁していたバタコを連れ出した。
ドキンちゃんはバタコを見るなり嫌な顔をしたが、黙って操縦桿を握った。
もう、後には退けない。
やるしかないのだ。
妹のためにも、私のためにも。
彼女は大義名分を持つことでなんとか昂る自分を押さえていた。
第十二章 天丼マンの後悔
どうしてこんな事になってしまったんだろう。
彼は美女三人の誘惑に乗ってしまったことを後悔していた。
まったく、本当に今日は何をやっても駄目な日らしい。
そう言えば朝から調子が悪かった。いつもなら滅多に乗らないカツ丼マンと釜飯マンの誘いにもなぜか乗ってしまった。散々奴等の話につきあわされて、やっと良いことがあったかと思ったら今度はこれだ。
一体僕なんかを誘拐してどうなるって言うんだ。もう、叫んじゃうぞ。助けてー、アンパンマーン。……馬鹿か、俺は。
店を出た途端に強烈な肘鉄を貰って気を失い、目が覚めたら隣には縛られた女が横たわっている。冗談じゃない。いい加減にしてくれ。
もう逆らわないことにしよう。どうせ何やったって無駄なんだ。なるようにしかならないし、おとなしくしてれば命は保証して貰えるらしいし。
狭苦しい荷物入れの中で、だんだん酔いが回って来た。やばい。吐きそうだ。でも、あのオレンジのスーツの女のものらしいこの乗り物を汚したりしたら、何をされるか解らない。ここは我慢だ。彼は必死で吐き気を堪えた。
耳を澄ますと、座席で女達が話していることが聞こえてくる。
なんだか、犯罪の話のようだ。彼は戦慄した。冗談じゃない。
乗り物が急停止した。彼は連れ出され、白い髭を顔中に生やした老人の前に連れ出された。
「おじいちゃん、こいつのことお願い」オレンジのスーツの女が言った。
「おうおう、こんな美人たちの頼みなら、きかんわけにはいかんのう。ワシまで若返ったような気分じゃ。どれ」そう言うと老人は手に持った杖をかざして、檻を出現させた。彼にこの中に入れ、と合図をすると、悶える女も一緒に放り投げた。
「どれ、今日は客が多いのう。退屈せんでいいわい。でも、できればもっと早く来て欲しかったのう。眠くてかなわん」
「ダメよー、おじいちゃん。年寄りはすぐねちゃうんだから。……所で、私達の他にもお客さんがいるって、まさか黴菌マンじゃないでしょうね」
「違うわい。あんな奴のためにこんな遅くまでワシが起きとるか」
ややこしいことになってきたようだ。彼は檻の中で運命を呪った。
第十三章 ドキンちゃんの策略
黴菌仙人への客とは、赤ちゃんマンだった。
彼が、あの有名な孤高の虎、ね。彼女は彼を見た。柔和そうな顔付、緩やかな物腰。伝え聞いていた彼のイメージとはずいぶん違い、彼女は正直に戸惑いを隠せなかった。そして、なぜ彼が黴菌仙人の元を訪れているのかも理解できなかった。
彼は時計を見て、懐から何かを取り出した。銃か、ナイフか。彼女は戦地で培った反射神経で素早く身構えた。
しかし、彼が取り出したのは哺乳瓶だった。
……ミルクの時間だったようだ。
彼女は自分の取り越し苦労を他人に悟られないように、さり気なく黴菌仙人に話題を切り出した。
大まかなアウトラインを彼女が説明し、詳しい所はロールパンナが補った説明は要領を得ていて、簡潔で、解りやすかった。
「で、ワシは何をすれば良いんじゃ」黴菌仙人が訊いた。
「おじいちゃんにはね、全体的にアドバイスをしてもらおうと思って。それと、人質の管理と、幾つか道具を用立ててほしいの」
「解った解った。他ならぬドキンちゃんの為じゃ。この老いぼれ、幾らでも力を貸そう。まずこの作戦じゃがな、ここをこうやって、ここから攻めて……」
黴菌仙人は作戦に改善を加え、さらにパーフェクトな状態へと導いた。
作戦の足りなかった部分が完全に補充され、後は開戦を待つばかりになった。しかし、念の為相手の情報を調べておきたかった。少しでも情報は多いほうが良い。彼女は黴菌マンと出会う前の彼女の、冷酷な女テロリストの顔に戻っていた。カビルンルンの一人を偵察に派遣し、相手側の状況を確認した。既にバタコの不在に気が付き、捜索が始まっていると言う。さらに悪いことには、相手は、おむすびまんを仲間に引き入れたようだった。偶然近くに宿泊していたのを相手側が上手く引き込んだらしい。おむすびまんと言えば有名な流浪の侍だ。危険な存在。上手く始末しなければ。もう不安要素はない。おむすびまんの名前が出たときのマキの様子がおかしかったのを除けば。
第十四章 鉄火のマキの動揺
彼女は動揺していた。
彼が現れた。
それも敵として、だ。
こんなにも早く再会が叶ったことへの喜びも、最悪の状況での再会であることへの絶望も、ない混ぜになって彼女の内に潜んでいた。
しかしそんなことは彼女にはどうでも良いことであった。
もう一度あの人に逢える。
それだけで彼女の胸は高鳴った。例えどんな形であるにせよ、彼との再会は彼女にとっては喜びでしか有り得ぬ。
例え彼女が彼の刀の錆となり消えても、もしくは彼が彼女の胸で息を引き取ることになろうとも、それはそれで構わぬ。彼女はそう思った。
しかし周囲の人々は誰もそんな彼女の心情に気が付いていないようだった。
唯一人、ドキンちゃんを除いては。
ドキンちゃんは一瞬射るように彼女を見据え、そしてまた作戦会議へと戻った。
悟られたかもしれぬ。彼女は一瞬不安になった。しかし、女にだけ備わる天性の勘で、彼女もまた敵軍に想い人がいることを察した。
貴女も辛いのだな。
彼女は必死で感情を押し殺して、黴菌仙人の用意した戦闘用のコスチュームへと着替えを始めた。ロールパンナも又、独自の戦闘服に着替えていた。
ロールパンナの戦闘服は非常に変わっている。
まずアラブ風の衣装に白いターバン。そして腰に半月刀を差し、白いマントを羽織る。闇夜に良く馴染む彼女の衣装とは正反対の、朝霧に溶けるような純白の衣だ。
そしてドキンちゃんの衣装はもっと奇抜だ。朝焼けを思わせる赤とオレンジの中間色のボディースーツ。素材はケプラーか。そして濃い群青色のサングラス。ボディースーツと同じ色のヘッドギアをつけ、手にはコルトSAAを握り締めている。特種仕様なのだろう。彼女の知っているのとは若干形が違う。予想外だったのは、正義の味方であるはずの赤ちゃんマンがこちら側に着いたと言うことだった。彼も完全武装していた。
第十五章 ロールパンナの戦闘
戦闘の支度は整った。昨夜のアルコールは既に抜けている。興奮が薬となってかえって睡眠不足は良い方向に働いている。
それは他の皆も同じようだった。
出掛けよう。
彼女は飛行用ユニットを装備しているので戦地までの移動方法は確保しているが、その点で問題なのはマキだけだった。赤ちゃんマンも彼女と同様の飛行ユニットを持っているし、ドキンちゃんは専用のマシーンがある。カビルンルンは現地集合だ。
問題はないだろう。マキは空中戦はやらないし、移動はドキンちゃんに任せれば良い。彼女はこの戦闘で負けることは考えに入れていないので、退却路の確保は最小限に止めていた。マキはドキンちゃんの側半径一キロ以内に控えさせる。いざと言うときは二人で逃げてもらおう。
彼女はかつて無い高揚に覆われていた。
この作戦では彼女の相手は妹唯一人だ。
ドキンちゃんは自らの要望で食パンマンとの一騎打ちを望んでいたし、同様にマキもおむすびまんとの白兵戦を行う手筈になっている。赤ちゃんマンにアンパンマンをぶつけ、カレーパンマンの罠とジャム小父さんの相手はカビルンルンに行わせる。
計画にぬかりはない。
カビルンルンによって戦地の確保と状況の調べは付いている。
万事オーケーだ。
朝日と共に一斉攻撃を掛ける。
既に空は白み始めている。
「そろそろいきましょう」ドキンちゃんが言った。
「頑張るんじゃぞ。ゆめゆめ美しい顔に傷を残したりせんようにな」黴菌仙人が言った。「……」赤ちゃんマンが無言で合図をした。もっとも、彼の声を聞いたものはまだ誰もいなかったのだが。
「始めましょう。では、作戦の成功を祈って」彼女は拳を振り上げた。戦いの前の彼女の儀式なのだ。
第十六章 天丼マンの苦悩
彼は激しい頭痛に悩まされていた。長い痛みと短い痛みが一定のリズムで走る。まるで例の旋律のようだ。そして彼は苦笑した。
もともとこの頭痛の原因は、白い髭を顔中に蓄えた青白い顔の老人に掛けられた妖しい術のせいなのだ。しかし術の効果も薄れ始めたのか、鈍い痛みがどこか遠くで遠雷のように響いてる程度にまでおさまってはいた。
彼は隣で転がっている女に目を向けた。不思議な顔だった。それも、昨晩の女達のようなミステリアスと言う意味ではなく、どちらかと言うと悪い意味での不思議な顔だ。胸の膨らみも、腰のくびれも、何もない。男心をそそる要素をこれ程持ち合わせていない女は今時探すのは難しいのではないのかと思わせるような顔だ。それでも今は仕方がない。唯一の同志なのだ。狭い檻の中で寒い夜を共にした捕虜同士の連帯が無くもない、と彼は思うことにして、彼女に声を掛けた。猿轡はもう外されていたし、ぼやけたような瞳で朝焼けを眺めていることからもう意識は戻っているらしい。
彼の彼女の安否を問う質問には答えなかったが、露骨に不安そうな顔をした。彼はそれが無性に癪に触った。苛立ったので、もう彼女には何も訊かないことにした。そして頭痛のリズムに逢わせてあのメロディーを刻んでいた他に何もすることがなかったし、気が紛れそうなこともなかったからだ。
「あの……」隣の女が話しかけてきた。彼が無視していると、彼女は泣きそうな声で次々と語り始めた。自分がパン工場で働くものであること。いきなり誘拐されて凄く不安だったこと。でもきっと正義の味方達が助けてくれるはずだと言うこと。など、など。彼は彼女の声を聞くのも嫌になっていた。第一泣き声で何を言っているのか聞き取りづらい。次に声が平坦で早口だ。そのくせ感情が高まると一気に崩れる。
彼は彼女が嫌いだった。
これだったら自分を誘拐した女達と悪事に関わる方が良い。
その時、老人の住居から女達が現れた。
彼は一瞬期待の視線を昨晩オレンジのスーツを来ていた女に向けたが、彼女は冷たい一瞥をくれただけで彼を無視し、どこかに向けて発っていってしまった。
隣の女はまだ泣き続けている。もうどうにでもなりやがれ。
第十七章 邂逅
女は自分のこれまでのわだかまりの原因である男と対峙していた。
男の名は、食パンマン。女の名は、ドキンちゃん。
オレンジのボディースーツが朝日に映えて輝いた。
「やっと逢えたわね」女は言った。緩い風が吹いた。朝の風は涼しく、激しい動悸で火照った身体に心地良い。男は無言で女を一瞥した。丁度さっき女が天丼マンにくれたのと同じような視線だ。女は惨めな気分にはならなかった。そう、私はこの男と訣別するためにここにきた。そして、かつての自分を取り戻すの。
「まず最初に言っておきたいことがあるの。私、あなたのことが好きよ」女はできるだけ抑揚を控えた声で言った。
「良く喋る女だ」男は冷たい声で言った。
「そうね、でも、私達の間には言葉しかないわ。ちょっとした仕種で伝わるほど時を重ねてはいないし、態度で相手を判断するにはお互いに知り過ぎているしね」
「成程。実に論理的な考えだ。で、だからどうなんだ?」
「別に。あなたのことは愛している。でも私は私が一番大切なの。だからあなたには消えてもらうの。この世から、そして私の中から」
女は銃を構えた。良く手入され、十分に使い込まれた特注のコルトSAAだ。カスタマイズされたマガジンにはマックスよりも一発少ない弾丸が装填してある。暴発を防ぐための、戦場の常識だ。しかし、いざというときにはマックスまで弾を込める。
三発。それでケリをつける。
一発目。男は素早く空中に逃げる。飛行用ユニットを装備しているので、当然のことだ。女の計算通りだった。
二発目。飛行用ユニットを破壊する。命中。男は転落する。
地面に伏した男を見て、女は違和感を感じた。上手くことが運び過ぎる。
殺気。女は素早く防御体制に入った。一瞬でも遅れていたら命はなかった男の弾丸が女のバリアーに命中した。
「さようなら」
女は最愛の男の胸に鉛玉を送った。血飛沫は薔薇のようだった。
先の対決と時を同じくして、近くで別の対決があった。
鉄火のマキと、おむすびまんである。
女は内腿から三節棍を取り出し、男に一撃を加えた。男は抵抗せずに直撃を食らった。女はそれが我慢ならなかった。素早く鞭を取り出し男に向かって放つ。男は左の腕でそれを絡め取り、刀でそれを切り払った。
「マキ殿。主とこのように再会するとはな。運命とは皮肉なものよ」
男は刀を降ろした。仕掛ける雰囲気は微塵もない。
女は懐の飛び道具で男に攻撃を仕掛けた。男はそれを全て刀で払い落とし悲しそうな目で女を見据えた。
「マキ殿、止すがいい。主では拙者に勝てぬ」
男は女ににじり寄った。着流しの裾から剥き出した逞しい脚に、女は一瞬魅せられた。頬が薄紅に染まる。しかし女は次の瞬間には身構えていた。自動小銃はこの距離では有用とは思えぬ。鞭もしかり。第一、使い物にならぬ飛び道具は幾らか残っていたが、やはり役に立たぬ。毒か、三節棍か。しかし、男の分厚い胸に幾ら棍を降り下ろしてみたところで、大したダメージは期待できぬ。やはり毒か。彼女は咄嗟の判断で懐中の毒を用意した。
「マキ殿。拙者は、剣の道に生きるもの。女は切れぬ」
女はその一言で決心を決めた。
躊躇も憤慨も動揺も高揚もなかった。
唯、石のように冷静だ。
ああ、私はやはりこの人を愛している。
女は男にくちづけた。
逃がさぬよう、頸に手を回し、しっかりと抱き締めて。
仕事のため、遊女の姿をしたときも、身体は許しても唇は許さなかった。
長身の女が、若干小さい男の身体を包むようにして、二人は繋がった。
初めてのくちづけは、甘い毒草の味がした。
そしてそれは、彼女の最期でもあった。
絡み合う舌に血の味が混じり、やがてそれは毒の味さえもを凌駕し、緩く幽かに遠ざかり消え逝く景色の中、女は男の身体を感じ、冷め行く熱、肉、肌、胸、掌、脚、貌、舌、眸、汗、涙、心、そして愛を感じた。
女は自らと同じ血を受け継いだ妹の姿を見つけた。
姉の仕掛けた罠を物ともせず、妹は接近してくる。
姉は地雷源を擦り抜ける妹に嫉妬と賛嘆を覚えた。
「お姉ちゃん」
「解って。これもあなたのためなのよ」
妹、メロンパンナは姉とは正反対の白い肌に、少女らしいそばかすが散っていて、ちょうどそれが星のように見える。
姉はターバンの下の目を光らせ、妹の隣の木に仕掛けたブービートラップを作動させる。妹はそれを素早くかわし、結局幾多の罠を潜り抜けたにも拘らず無傷だった。姉はそれが腹立たしくもあり、嬉しくもあった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃんがバタコさんをさらったの?」
「そうよ。あなたへの教育のためには、仕方がないことなの」
「そんなのっておかしいよ。お姉ちゃん、違う」
「違う。そうね、私は狂っているのかもしれない。でも、私を狂人に変えたのはあなたよ、メロンパンナ」
「どうして? 私、がんばってるじゃない。なにが気に入らないの?」
「問答無用、勝負よ。私に勝てたら、何も彼もを終わらせ、あなたの好きなようにさせる」
姉は妹を半月刀で切り下ろした。妹はそれを素早い動作でかわした。すかさず第二撃。姉の狂刃は妹のバトルスーツをかすめただけだった。
やっぱり、適わないのかもしれない。姉は一瞬弱気になった。
でも、妹に私にとどめを刺すことはできないだろう。戦場では例え肉親でも殺さねばならないことだって有り得るのだ。非情になり切れない、それが妹の弱点だ。
「お姉ちゃん、ゴメンね、許してね。やっぱり私はダメみたい。お姉ちゃんより、みんなといたいの」
妹は姉の凶器を取り上げ、返す刀でみねうちをした。
姉は妹の想像以上の成長ぶりに驚愕し、同時に落胆した。
そして意識がフェードアウトしていった。
私達が、普通の姉妹だったなら。
終章 パン工場に昇る朝日
正義が必ずしも勝つとは限らない。
今回の戦いはそれを証明していた。
三人の女のうち無事に生き残ったのはドキンちゃんだけだったが、彼女の指揮のもと、テロリストと赤ちゃんマンは見事勝利をおさめた。
パン工場は潰され、かろうじて生き残ったジャム小父さんも腕を負傷し、二度とパン造りをすることはできなくなった。パン工場の仕事は結構重労働なのだ。
ドキンちゃんは華々しい戦果を持って本部に戻り、テロ活動に精を上げている。
マキとおむすびまんの遺体はこむすびまんによって埋葬され、海を見下ろす丘の上で仲良く眠っている。
ロールパンナはドキンちゃんによってメロンパンナの手から奪回され、黴菌仙人の治療によって回復したが、テロ対策部隊からは除隊して静かな日々を送っている。
正義の味方はことごとく負傷し、食パンマンと本部であるパン工場を欠いたことが大きく、以降目立った活動はなくなり、街は黴菌マンの独壇場となっている。が、黴菌マン自体が小物なので町の人々は実は結構平和だったりする。唯、河馬男君だけはいつも被害にあっているらしい。教訓、社会的弱者は社会的弱者の標的となる。
何かを忘れているような気もするが、大した事ではないと思うので省略。
あ、思い出した。
天丼マンのその後ですが、各自で勝手に考えて下さい。