第16話 "angelbaby"
こんなに遠い空なら、きっと。
くー(工藤詠子:くどうえいこ)は、ずっと以前に一度だけ訪れた湖の事を思い出していた。
VRではない、本物の湖だった。
世界の変化でスモッグの消え始めた空は遠く、それを映す湖面は何処までも深かったのを覚えている。
「眠れない夜には水の事を考えるといい」
そう教えてくれたのは彼だった。
不眠がちだったくーは、水のイメージを頭の中に流す事で少しずつ眠れるようになった。流れる水の軟らかなノイズが、低めの彼の声のイメージに重なり、彼の腕の温度を思い出し、彼女は眠りに就いた。
不思議な夢ばかり見る。
夢の中で彼女は名前が無く、真っ暗な、前も後ろも上も下も、右も左も存在しない世界で、彼女に与えられたのは不安と、一筋の光だけだった。
不確かな足取りで、光を目指す。
かすかに、女の声が聞こえた、気がした。
いつも其処で目が覚める。
ただ不安な気持ちばかりが残り、夢の中身は覚えていない。
薄く汗ばんで、目を覚ます。
そして呪文のように水のイメージを繰り返して無理矢理にもう一度眠る。
彼の腕に抱かれている自分を思い出している事に気づかないフリをして。
寝不足でふらつく脳を強引に覚まして、仕事を始める。
彼女の仕事は教師だ。
どんな情報でも誰にでも入手できるけれども、やはり最低限の教育は必要だった。かつてに比べればその自由度は飛躍的に上がったとは言え、教育が必要なくなったわけではない。彼女は彼女なりに誇りを持ってこの仕事を続けていた。
いつか、それすら必要無くなるのかもしれない。
それを考えるのは怖かった。
授業中に無線メールが届く。
同僚のそらに(遠藤藍子:えんどうあいこ)からだった。
そらには保健医という立場から、身体的な面だけでなく「マシンとしての身体」のメンテナンスに付いての情報を良く送ってくれる。そらには元々はDDの専門医を目指していたらしく、その手の情報にも詳しい。
ウィルスの蔓延に対する警告のメールだった。
KMRという新種のウィルスが発生したのは噂で聞いていたが、その続報らしい。
KMRは個人情報が丸見えになると言う想像もしたくない様な効果があるウィルスだが、更に追加でとんでもないものが付属で付いてくる事があるという。
"SleepMyDear"と呼ばれたその効果は、睡眠、脳の機能が休止状態になると強制的に外部サーバにアクセスしてしまうものらしい。オリジナルに近いものほど強力で、中には強制的に眠らせてしまうものもあるとの事だった。
"SleepMyDear"が発動すると、不思議な夢を見る。
彼女はいつも覚えていない不安な夢を思い出す。
そして今日も、眠りの魔法をかけて眠りに就く。
光に、随分近づいた。
かすかに、
違う。
あれは、
水の音だ。
そして、一度に世界が広がった。
あの湖だった。
「こんなに遠い空なら、きっと、天使に会える」
ぼんやりと、彼が呟いた。