第8話“ISR”
いつもの様に。
泣かないで。
笑うんだ。
今日も。
でも。
嫌。
。
イーストの甘い匂いが、「99%」のそれ程広くない店内に充満する。それは仕事帰りのスバル(入谷すばる:いりやすばる)がドアを開けた合図だった。
全部で9席あるカウンターは、まだ日も暮れたばかりだと言うのにもう両端を残して埋まっている。スバルはたえこ(古田雅一:ふるたがいち)の隣に座る。99%にある端末のすぐ隣。そこは入り口のドアから一番遠い席で、スバルの指定席だった。
今日は一人でいたくなかった。
今日も、か。
喧騒の中にいると落ち着く。
一人になって随分経つのに、まだ、一人で過ごす夜にだけは慣れないの。
孤独になんて慣れるもんじゃないよ。
スバルが独り言のように呟き、たえこがやはり独り言のように返した。
弱音は吐かない、後悔もしない。本気にもならない。つもりだった。
けど。
「マスター、いつもの。」
「カシスねー。」
この店でマスターを「マスター」と呼ぶのはスバルだけだ。他の客はみんな「のぶまま」と呼ぶ。のぶまま(浅田信彦:あさだのぶひこ)は慣れたような慣れないような、不器用にも見える手付きで酒を作る。
スバルがたえこやのぶままと形ばかりの乾杯をした時、チカコ(山下千賀:やましたちか)が店のドアを開けた。
「ちょっとのぶまま、ボックス誰も座ってないわよね?ちょっとこんなの拾っちゃったから置いといていい?」
チカコは緑色のボトルを抱き締めた酔っ払いの手を引いて入ってきた。
「触んないでくれ……」
酔っ払いはうわごとのように言うとふらふらとボックスに歩み寄り、倒れるなり死んだように眠りこけてしまった。
「汚さない様にねー。」
チカコが変な男を「拾って」来るのは、「いつも」でこそないが「初めて」でもないので、またかと言った諦めの眼差しと今度はどんな男だろう、と言う好奇の眼差しで客達は見守っている。
「スバルちゃん、持ってってあげてね。」
何故かのぶままは水の入ったグラスをスバルに渡し、ちょっとだけ微笑んだ。
責任を取って、なのかどうか知らないが、酔っ払いの寝ているボックスに座ったチカコにも呼ばれ、スバルもしぶしぶボックスに移動した。
「誰?」
「知らないわよ。道端で寝てたから拾ってきたの。」
「なんでいっつもそんなの拾ってくるの?」
「だって顔がちょっと可愛いでしょ。」
言われてみればまあ確かにチカコの好きそうな顔ではあった。スバルの好きなタイプではなかったのだが。
「身元は?もう調べたんでしょ?」
「それがね、ないのよ。コネクタが。」
通常ならうなじの所にあるはずのコネクタが無い、と、チカコは言う。これが無いと普通に生活するのも困難なはずだ。脳内チップにダイレクトに繋がっていて、サイバースペースに出入りしたりコンピュータにアクセスするのに必要な物なのに、確かにこの男にはあるべきコネクタのかわりに大きな傷痕があるだけだった。
「どういう事?」
スバルは一瞬、動揺した。『星旗六門』の仕事に、似ている。チップを回収された……でも、だったら生きているはずがない。
チカコはあまり興味なさそうに男の額を指で撫でている。彼女が興味があるのは男の中身ではないらしい。
「CBKなんじゃないかしら?」
突然会話に割り込んできたのは、のぶままだった。
「知ってるの?」
「こういう仕事やってると色々な情報が集まってくるのよ。」
のぶままは結構謎が多い。マフィアやテロリストなどの裏社会の情報にも意外なほど詳しかったりする。昔はその筋で活躍していたのでは、というのが常連達の推測だったが、誰もそんなことを店で口にしたりはしないし、実際にのぶままに尋ねたりもしないので本当の所は解らない。
「これはアナログで訊いてみるしかなさそうねぇ。」
傷痕の中に、確かに破損したコネクタの様な物があるのを確認して、のぶままが言った。
「ねぇ、CBKって何なの?」
それ程興味はないけど、と言いたげに、チカコが口を挟んだ。
「『ファーム』破りのハッカーよ。」
「嘘??」
「実際には未遂、らしいけど。でも侵入に成功したと言う噂もあるわ。なんだかのリストをコピーするのに成功したけど、それをアウトプットする事は出来ない、なぜならチップは生命維持装置を残して焼き切れたから、と、言う説もあるのよねぇ。」
のぶままは自分の短く刈り込んだ頭を人差し指で示しながら言った。
「でもなんのリストだったかしら? 牛や豚の管理表? まさかねぇ。聞いたような気もするけど、聞かなかったのかも。そもそもデマかもしれないし」
店のドアが開いた。若い男がきょろきょろと店を見回している。
「あ、いたいた。」
男はCBK(らしき男)の寝ているボックスに近付いて、
「この人を探してたんですよ。」
と、言った。
その時、店の端末に一瞬女の影が映った事に気が付いた者はいなかった。